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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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解放            :約2000文字

 アパート暮らしの男。夜中に目を覚ました。何かが落ちた音がしたのだ。

 音がしたのは、おそらくベッドの脇。何が落ちたのか、それとも夢の中での出来事だったのか。男はまぶたをこすり、暗闇の中で目を凝らす。わざわざ起き上がり、灯りをつける気はない。カーテンの隙間から差し込む街灯の光があれば十分だろう――そう考えた。

 実際、ぼんやりと部屋の輪郭が浮かび上がってきた。床に何かが落ちている。


 ――これは……。


 ナイフだ。

 あった場所と、自分が目を覚ましたときの手の位置から考えて、どうやら自分で握っていたものが落ちたようだ。

 なぜ? 男は首をひねりながら足を下ろし、ナイフを拾い上げた。掲げるようにして、まじまじと刃を眺める。そこに映る自分の顔がぼやけているのは、まだ寝ぼけているせいだろう。

 擦り、擦る。まぶたをこすり、意識を引き寄せると、部屋の情景がさらに鮮明になった。


 ――人。


 視界の端に黒い塊が映った瞬間、男は本能的に跳ねるように飛び退いた。壁に背をぶつけ、痛みに顔をしかめる。それでもナイフは放さなかった。

 威嚇のつもりで震えながらナイフを向ける。

 そこには、女が立っていた。顔をうつむけ、腕をだらりと垂らし、床に足は着いているが、その姿はまるで見えないロープで首を吊られているかのようだ。


「お、おい……おい!」


 男は強気な声を作り、女に呼びかけた。声も震えていたが、裏返らなかっただけで十分。だが、女は何の反応も見せない。


 ――いや、動かないのならそれでいい。そのまま動くな。


 まずは落ち着きを取り戻そうと、男は何度か深呼吸を繰り返した。震えていたナイフが次第に静まり、呼吸のリズムが戻った。


「よし……」


 男はゆっくりとベッドから立ち上がり、女に近づいた。「おい、おーい……」とそばで何度か声をかけてみたが、無反応だ。

 いったい、この不気味な女は何者だ? 泥棒か、いや頭のおかしいやつか。いずれにしても、どうやってこの部屋に入ったのか。 

 警察を呼ぶべきだ。そう考えたが、深夜に騒ぎになるのは避けたいところ。それに、もし警察が到着した途端、この女が「自分はこの男に無理やり連れ込まれました」とでも言い出したらどうする? 可能性はある。そう、あるんだ。


 男は女の肩を押してみた。またも反応はない。だが、さすがにまったく動かないというわけではない。押されれば動いた。

 ならばと、男は女をそのまま部屋の外へ追い出し、鍵を閉めた。


 ――夢遊病の類だろうか……。 


 そんなことを考えていると、闇の中にあった女の佇まいを思い出し、背筋が震えた。

 男はベッドに戻った。今夜はもう眠れないだろうと思ったが、意外にもすぐ眠りに落ちた。


 しかし、それで終わりではなかった。


 翌夜、ふと目を覚ますと、またあの女がそこにいた。

 そして、自分の手には前日と同じようにナイフが握られている。防犯目的で、寝る前にベランダと玄関に並べた画鋲を確かめに行くと、軍隊のように整列したままこちらを見上げている。


「おい、どうやって入ったんだ……おい……」


 男は女に近寄り、問いただす。だが、相変わらず何も答えない。

 苛立ちと恐怖が交じり、男は思わず女を強く押した。

 すると、女はただ倒れた。マネキンのように、重力に従った。


 ――お前は。 


 男はナイフを持ち直し、馬乗りになって女を見下ろす。

 女の胸にナイフを向けた。それでも女は依然、無反応のままだ。髪から覗くその瞳は吸い込まれそうなほど深く、黒かった。

 震える手が、ナイフの刃先を上下させる。視界が滲み、涙が頬を伝ったとき、男はそこで初めて自分が泣いていることに気づいた。途端に目が熱くなり、喉も痛んだ。


 ――ああ、わかっていた。なぜ毎晩、ナイフを握っていないと眠れないのか。怖い、怖い……。怖くてたまらないのだ。人間が……。


 男は女の胸にナイフを押し込んだ。

 刃が沈む感覚とともに、自分の背中に奇妙な感覚が広がっていく。まるで、ゆっくりと開いていくような。

 恍惚とした表情を浮かべ、口を開くと満足げな息を漏らす。


 ――これは、羽化だ。


 目を閉じ、背筋を伸ばして震えたそのとき、ナイフが音を立てて床に突き刺さった。

 男はバランスを崩し、前のめりになる。そこに女はいなかった。残り香すらない。初めから何もなかったように。

 部屋は静寂に包まれている。ただ、手には確かな感触が残っていた。

 男はナイフを放し、腕を伸ばして両手を大きく広げた。もう震えはない。

 感触を思い出すように両手を握りしめ、それを額に当てる。


 ――自分の中の何かが失なわれた。


 けど


 もう、何でもできる気がした。

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