嗚呼、死神 :約1500文字 :しんみり
彼は放課後、校舎の廊下をあてもなく歩いていた。目的地などなかった。ただ何かを探している気がしていたが、その『何か』がなんなのか、彼自身もわかっていなかった。
胸や胃のあたりをそっと撫でると、空虚さが際立つ。空腹というわけではない。ただ気持ちが悪い。体の中の一部がぽっかりと抜け落ちたような感覚がそこにあった。
教室の近くを通りかかると、生徒たちの喧騒が耳に飛び込んできた。彼は足早にその場を通り過ぎた。
やがて、人けのないところに着いた。授業でしか使われない教室ばかりが並ぶ廊下だった。彼は立ち止まり、静けさに心を寄せ、安らぎを取り戻そうとする。どこか直に氷に触れているような冷たさを感じるが、人の吐息よりは心地よかった。
歩き出そうとすると、ふと目の前の教室のドアが半分ほど開いていることに気づいた。通り過ぎようとした瞬間、風が優しく頬を撫でた。
どうやら窓も開いているようだ。立ち止まり、そっと教室の中を覗き込むと、揺れる白いカーテンが目に入った。
なんの気なしに、彼は教室の中に足を踏み入れた。風が止み、大きく揺れていたカーテンが静かに動きを止めた。するとまるで花嫁のベールを上げるかのように、その向こうから女の子の姿が現れた。
彼はその場に立ち尽くした。彼女は椅子に座り、本を読んでいる。おとなしげな雰囲気をまとい、彼の存在には気づいていないようだった。同級生だろうか。それとも後輩か。彼にはわからなかった。
女の子がページをめくる渇いた音が、教室の静寂にそっと溶ける。その音は彼に不思議な心地良さをもたらしたが、同時に居心地の悪さも生んだ。戸惑う彼の気配を感じたのだろうか、ふいに女の子が顔を上げ、彼を見た。
二人の間に、静かな時間とそよ風が流れる。だが、彼の心の中は焦燥で渦巻いていた。
――僕を見ている。何か言わなきゃ。でも、何を言えばいいんだろう。頭が真っ白だ。でも、顔はきっと真っ赤だ……。
そのまま黙っていると、女の子は再び視線を本へ落とした。
その瞬間、無音が鋭さと脆さを持つガラス製の刃となって襲いかかる感覚がした。居たたまれなくなり、彼は教室を飛び出した。
次の日も、女の子はあの教室にいた。
四階の廊下を忍び足で歩き、教室の中を確認した彼は、どう話しかけるべきか考えた。
下心はなかった。おそらく。思春期の中学生、特に彼は自分の湧き上がる感情をどこへ向ければいいのか、以前からわからなかった。ただ昨日の失敗を取り返したかった。あの空いた時間を埋めたかった。何かを変えたい、そう思った。
しかし、女の子が本をパタンと閉じただけで、彼は臆病な小動物のように逃げ出した。
情けない。そう思う反面、どこか気持ちが軽かった。ちょっとした目標ができたからだろうか。その感情が彼の足取りにも現れ、軽快に体を運んだ。
――今日こそ、話しかけられるだろうか。
放課後、浮き立つ心がどこかこそばゆかった。タン、タン、タン、ダン! と階段の最後の一段を強く踏みしめ、響く音に耳を澄ませ、少しの征服感を味わう。すると、話し声が聞こえてきた。あの教室に近づくにつれ、大きく。そして弾むように。
彼は静かに近づき、そっと覗き込んだ。
そこにはあの女の子と、一人の男子生徒がいた。
風が吹き、女の子の髪が乱れる。その髪を男子が指で整えて、二人は微笑み合った。
彼はその光景を静かに見つめていた。立ち去ることを思いつくよりも早く、二人は教室を出ていった。
二人はこの教室を待ち合わせ場所にしていたのだろう。入れ違いに、彼は反対側のドアから教室に入り、身を隠した。二人の話し声と背中を見送ると、そっとドアを閉めてその場に座り込んだ。
押し寄せる羞恥心と自分への失望。目眩がし、吐き気さえ覚えた。
――僕は彼女の……彼らの名前を知らない。知られてもいない。ただ僕が知り、僕を知るのは軽蔑と哀れみの目を向ける連中だけだ。あの子に仲間意識を持った。孤独を抱いている、孤独に覆われていると……。
俯く彼。風に撫でられ、顔を上げる。
揺れる白いカーテンが、手招きしているように見えた。
――嗚呼、死神。そこにいたのか。
彼はゆっくりと窓へ歩み寄った。
カーテンが彼を包み、彼の姿を教室から消した。




