関わらなければ…… :約1500文字
その老人は電柱の前に立っていた。
何をしているわけでもなく、顔が電柱にくっつきそうなほどの距離で、ただ立っていた。おれは不審に思いながらも、特に気にすることもなく通り過ぎた。その夜は調子が良く、そのままの勢いでランニングを続けるつもりだった。
だが、角を曲がった瞬間、足が止まった。いや、止めざるを得なかった。
そこに、先ほどの老人がいたのだ。
急いで別の道から先回りしたのか? いいや、そんなことはあり得ない。こっちは走っていたのだ。おまけにおれは陸上部。じゃあ、ただのそっくりさんか? それにしては似すぎている。服装も、雰囲気も、すべてがまったく同じだった。そんな偶然があるか?
だが、考えても仕方がない。関わらないほうがいい。そう思ってまた走り始めた。
……だが、また角を曲がるとそこにいた。服装は変わらずスーツ姿。顔は見えない、いや、見てはならないという気がした。
おれはスピードを上げて通り過ぎた。関わるな、無視しろ。何度も自分にそう言い聞かせながら走り続けた。でも、次の角を曲がるたびに、その老人は必ずそこにいた。次も、そのまた次も……。
いつの間にか、おれは逃げるために走っていた。
でも逃げられなかった。自分の好奇心からは。おれはついに立ち止まり、その老人に近づいて肩に手をかけ――
それが十数年前、おれが中学生だったときの話だ。当時からホラー映画やドラマが好きで、よく見ていた。だから直感したのだ。これは碌なことにならない、と。
理性が勝り、結局、おれは伸ばしかけた手を引っ込め、全速力で逃げた。自分で自分に言い聞かせた。「馬鹿なことはするな」と。物語の登場人物ってのは、怪しい状況に踏み込んで痛い目に遭うものだ。そんな真似をする必要はない。関わらなければいいだけなんだ。
その後も、夜ランニングに出るたびにあの老人は現れた。時には姿を変えて。子供や女、でもそれが何であろうと、雰囲気でわかる。だから油断しなかった。
いずれも無視して、おれは走り続けた。中学、高校を卒業し、スポーツ推薦で大学へ進学。スポーツシューズメーカーに就職して今に至る。人生も無我夢中で走り続けたおかげか、気づけば昇進。今日はそのお祝いで、会社の連中と酒を酌み交わしていた。
酔っぱらったおれは足元もおぼつかないまま帰路についた。いい気分だった。うっかり人にぶつかるまでは。
「すまん、大丈夫か?」
そう声をかけたが、相手は無言のまま立ち尽くしている。妙に腹が立ったおれは「おい、無視するなよ」と、その肩に手を伸ばした――その瞬間、酔いが一気に覚めた。
あの老人だった。
ゆっくりと振り返る――その顔には、鼻も目も口もなく、穴があいていた。その淵には不規則に散らばった歯と、奥に赤黒い舌だけが蠢いている。その舌が、まるで何かを喋るように震えている。おれは目を凝らし、見つめる。その舌が何を言っているのか知りたくなって――ここまでが、おれの想像だ。
頭の中に鮮明に映像が浮かび、おれは咄嗟に我に返った。そして、老人が振り返る前に全速力で逃げ出した。がむしゃらに走り、電車に飛び乗り、自宅近くの駅に降りてからも走り続けた。
自宅が見えると、ようやく安堵の息が漏れた。
おれは立ち止まり、電柱に手をついて大きく息を吐いた。次に顔を叩く。酒なんて二度と飲むものか。油断もしない。そうすれば生き延びれるんだ。あの老人に気をつけてさえいれば……。だが、いったいいつまで続くのか……もしかして、すでにおれは囚われて……いや、そんなことない。大丈夫だ。関わらなければ……ん? この電柱、穴が……あっ。
ああ、これ。
すごい。
あ、すごい。
すごーい。
すごいよこれ。
ほんとすごい。
わあ……。
すごい。
みんなもみればいいのに……。
すごいよ。
みせたいなあ。
すごい……ほんとうにすごい……すごい……。




