重荷 :約4500文字 :じんわり
とある平凡な男子高校生がいる。彼の名前は『偉人』。読んで字のごとく、『偉大な人』と書き、『いくと』と読む。
親は「立派な人になってほしい」と願って名付けたのだろうか。なんて安直な……。と、彼は常日頃から自分の名前を目にするたびに思い、ため息をついていた。(もっとも、親に名前の由来を尋ねたことはない)
そもそも、名前に思いを込めるなんてこと自体が……と今、彼にはそんなことを考えている余裕はない。
彼はこの日、学校の帰り道でいつもと違う道を選んだ。その先に用があったわけじゃない。ただのちょっとした気分転換だ。彼は平凡ゆえに、自身の名前以外にも思春期の男子らしい悩みをいくつも抱えていた。
無難に過ぎていく毎日。退屈だが、不安定な日常。何かしなければならない。でも何をしたらいいかわからない。募る焦燥感。彼女ができない。
気晴らしに知らない道を歩くくらいの冒険をしよう。あえて迷うのもいいかもしれない。
そんなふうに歩いていると、ふと、そう長くはない石段が目に留まった。高さはそこそこあるが、見上げれば終わりが見える程度。段差も急ではない。
あの上には何があるんだろうか。神社? お寺? 少し気になった彼は、試しに上ってみることにした。
だが、その選択を後悔することになる。疲れてへばったわけではない。むしろ順調そのものだった。問題は、石段の中腹に差し掛かったときだ。
その男の存在に気づいたのは、その瞬間だった。
上から下りて来たのだろう。妙な男だった。中肉中背の、どこにでもいそうなスーツ姿の男性。やや太めかもしれない。何にせよ、普通の会社員だ。
だが奇妙なことに、その男はなぜか後ろ向きで石段を下りていたのだ。両手を軽く前に突き出し、一段一段ゆっくりと。革靴の靴底が石段に点在する砂利を踏むたびに「ジリッ」と音を立てる。
不気味だが、だからこそ気になった。彼は男の顔を一目拝もうと、歩みを速めた。すれ違いざま、横目で男をちらりと見る。だが、男は顔を反対側に背けていて、結局その素顔を見ることはできなかった。
まあ、別にいい。彼がそう思い、また一歩、石段を上がろうとした、その瞬間だった。
――お、重っ!?
彼の体に突如、凄まじい重さのしかかったのだ。
――なんだこれは! 岩か! 巨漢の女か! 冷蔵庫、いや、モアイ像! それを誰かが「はい、パス!」と投げ渡してきたかのようだ!
力士が手のひらを顔にぐぐぐっと押し付けてくるかのように呼吸しづらく、彼の心の叫びはただ苦しげな息となり漏れ出た。足はぷるぷると震え、背中には圧力がかかり、背骨がわずかに音を立てる。
彼は両手を前に出して全身でなんとか目には見えない“それ”を支えるものの、気を抜けばすぐにでもこの石段を滑り落ちそうだった。そうなれば骨折、いや、下手をすれば圧死する。彼はすぐにそう悟った。
だが、わからないのはこうなった原因だ。
――どうなっている? あの男とすれ違った途端、この……。そうだ、あの男……。
あの男が何かしたのだろうか? そう考えた彼は鼻息荒く、どうにか振り返ろうとしたが、体は重さに押さえつけられて、首を動かすどころか声すらまともに出せない。眼球だけを必死に動かしても、人間の視界の狭さを呪うばかりだ。おまけに彼が向いてるのは右側で、男が下りていったのは左側だ。
彼は嘆き、そして滴る汗に目を閉じた。すると聴覚が鋭くなったのか、わずかに「ザリッ」と音が聞こえた。
今のは男の靴が石段にある落ち葉を踏み潰した音だ。男はまだいる、それに音からして男の体重以上の重量があることが予想される。それを伝えた落ち葉はきっと見るも無残な姿になっていることだろう。そう、男は黒幕ではない。男もまたこの苦行を課せられた同志なのだ!
そう思うと彼はふと重さが少しだけ軽くなった気がした。おお、同志よ、仲間よ、友よ。彼は息を吸い、精一杯の声を絞り出した。
「……あにょ、ひゅ、みません……こ、こへ……なに」
まるで野良猫の屁のような声だった。彼は恥ずかしさで顔を赤くした。そして、男からの返事はなかった。しかし彼は責めなかった。きっと、男にも余裕がないのだ。
孤独な彼は自身に選択肢を三つ提示した。このまま耐えるか、上がるか、降りるかだ。上がるのは論外との声。耐えるはいつまで? そうなると、「降りる」が結論。脳内会議は二秒で終わった。
彼はまず右足をじりじりと動かし、なんとか一段下りることに成功した。だが、その負荷は想像以上だった。足の裏、膝に衝撃が走り、重さが加わる。浮遊感は一瞬で掻き消えた。停車時のバスのように「フシュー」と息が漏れ、まだ一段、それも片足を下ろしただけでこれかと戦慄した。
――下までは何段ある? 四十か? 三十か? 多めに見積もっておいたほうが、実際に少なかったときにうれしいか?
汗が背中を伝い落ちるのを感じながら、彼は震える足を慎重に動かしていった。「誰か助けてくれないだろうか」という淡い期待を抱くも、「いや、こんな必死な形相は見られたくない」という思春期特有の自意識が頭に浮かんでは消えていく。
冷静になり、考えを整理しようとすると、浮かんできたのは先ほどの男のことだった。
――あの男はどこまで下りたのだろうか? 先に下り切ったら手を貸してくれるだろうか? あるいは助けを呼んでくれるだろうか? いや、それ以前に、この重圧は本当に石段を下りれば消えるのか?
わからない。確かめる方法はただ一つ。とにかく下りるしかない。解放されることを信じて。彼はそう自分に言い聞かせ、足を動かし続けた。すべてが終わったあと、マラソンランナーのように、あの男と互いの健闘を讃え合おう。
そう考えた彼だったが、ふと胸の奥に不安が広がった。墨汁が水に溶けるように、じわじわと黒に染まる。
――待て。マラソンランナー? なぜだ、なぜ今、『二人三脚』や『テニスのダブルス』を想像しなかった?
マラソン。その言葉を反芻した瞬間、小学校時代の記憶が蘇った。「最後まで一緒に走ろう」と約束した友人が途中で裏切り、一人だけ先にゴールへ向かっていった場面だ。
――これは競争なのか?
男がこちらの問いかけを無視したのも、意図的だったのかもしれない。そもそも最初から警告してくれればよかったのだ。この石段は危険だと。
だが彼はそこで疑念を振り払った。疑うことはよくない。常識ある高校生の彼は、この非常識な状況下でもその態度を保とうとしていた。だから、もう一度男に声をかけることにした。
「あ、あにょ、ほ、こ、これ、きょうそ、競争とかじゃないですよねえ!」
彼は言葉を絞り出したあと、耳を澄ました。自然とそうなった。そして、彼がわずかに抱いていた不安。恐れ。それは確かな言葉となって無防備な彼の耳を襲った。
「お、おまえみたいなガキに負けるかあ……!」
その瞬間、男が踏みしめた石段から「ダンッ!」と強い音が響いた。それは裁判官が木槌を叩いた音のように、あるいは一発の銃弾、戦いのゴング、電話を受話器に叩きつけた音のようにも聞こえた。
競争だ――彼の中に怒りが芽生えた。卑劣だ。もちろん、男が仲間だと偽っていたわけではない。だが、競争相手であることを隠し、抜け駆けしようとしていた。男自身も吹っ切れたのか、苦しげに語り始めた。
「上、は神社でなあ……立て看板に、神社の歴史だとかあの、あれ、社の中に、絵とかあってなあ……。ふた、二人の男が力比べして……ま、もう、わかるだろ……二人そろっちまったから、こうなったってことぉ! 察しろ! お、お前のせい、お前のせいだぁ……だから、はい、はぁい、スタート!」
男はそう言うと、彼には見えはしないが『これで公平だろ?』といった顔をし、また一段下りた。
彼はその態度を想像し、腹が立った。怒りと競争心が彼を突き動かす。ペースを上げ、靴音を頼りに男の今の位置を割り出し、それを目標に必死に下りる。これほどの集中力と闘志を抱いたのは、人生で初めてであった。
そして、ついに追いついた。互いが別方向を向いているため、視線は交わせないが、隣り合う呼吸音がその証明だ。
「お……つ……たっざぁ……」
追いついたぞ、と言ったつもりが、自分でも驚くほど、力のない声しか出なかった。死にかけの蝉のほうがまだ元気な音を出しそうだった。
「お、おまえ、とは、ちがうんだぁ、かぞく、かぞく、いえのろーん、しご、しごとぉぉぉぉぉぉうううぅぅぅぅぅふぅぅんくぅぅう……」
声を震わせ、男がまた一段下りた。彼も負けじと下りる。二人は一段、また一段と、ゆっくりだが互いに一歩も譲らぬ激しいデッドヒートを繰り広げた。小鳥の囀り、木々のさざめきが大観衆の歓声に聞こえる。
勝てる――彼はそう思った。視界の端に男の肩が映り込んだ。さらに、一段下りるたびに、汗で濡れた背中と尻が、震えた足が、やがて全身が彼の視界に収まった。そして――男の膝が折れる。
「あぎゅうああああぐううう! ああああああああああ!」
その叫びが断末魔だと知るのに、彼は時間を要さなかった。
骨が砕ける音、肉が石段に磨り潰される音、男の肉体の崩壊を告げるそのどの音よりも、男が口から飛沫を飛ばしながら発する「ばあむばあむばあむ!」という叫び声が彼の耳に響いた。
そして、彼は動きを止めた。恐怖と疲労が全身を支配し、それ以上進めなくなったのだ。だが、完全に止まれるはずがない。震えは脳のその奥、心にまで達した。
死、死、死、死、死、死んだ。死ぬ、僕も死ぬ。しぬ。ぼく、ぼく、ぼく、ぼく、し? ぼく、ぼく、ぼく、ちーん。なむあみだぶつなむあみだぶつ……。死ぬ、ぼく、ぼく、逝く、いく、ぼく、いくと、いくと、ああ、偉人……。
――死んでいいのか?
偉人は奮い立った。葬式で嘆く両親の姿を想像したか。それとも若すぎる死、まだ成し得ていない何かを想像したか。偉人は一歩を踏み出す。
一歩、また一歩。震えながらも着実に、力強く。
しかし、次の瞬間――彼は滑った。
――あっ、死。
そう思った。恐怖より軽く浮かび上がるのは、幼き頃の情景。走馬灯。しかし、それは一瞬だった。次に訪れたのは、衝撃とともに地面に尻を打つ感覚だった。
「へえ?」
そこはアスファルトの上。辺りを見渡し、そう理解すると笑いが込み上げた。口から空気が、笑い声とともに絶え間なく漏れる。
すでにあの重さは消えていた。それが石段を下り切ったからなのか、あるいは――彼にはわからなかった。
偉人はゆっくりと立ち上がった。大きく息を吐き、両腕をぷらぷらと振る。やはり、もう重さはない。
次に胸に触れる――重さは消えている。
偉人は最後にもう一度深呼吸すると、石段に背を向け、来た道を歩き出した。
体はまるで宙に浮かぶように軽かった。
きっとこの先、どんな困難も彼の足取りを重くすることはないだろう。どこかの立派な壇上に上がるときも、その足取りは軽やかに違いない。




