運命の分かれ道 :約2500文字
窓の向こう、空は月も星も雲の奥に隠れ、息を潜めていた。薄い灰色のヴェールに包まれたその景色は、まるで静寂そのものを象徴しているかのように感じる。
バスは低く唸りながら、頭を垂れる外灯を一つ一つ通り過ぎていく。その猛獣のような態度とは裏腹に、車内は揺れに優しく包まれ、穏やかな空気で満たされていた。
夜遅いせいか、乗客は数えるほどしかいない。ビールの缶を片手に、疲れきった顔の会社員らしき男。眠っているのか、座席に沈み込むように微動だにしないおばあさん。母親の肩にもたれかかり眠り込む子供。僕らは皆、今日という日の疲れを背負いながら、家路を目指していた。
僕は静かに息を吐き、軽く伸びをした。降りるバス停はまだまだ先だ。でも、目を閉じたら遠くへ連れていかれてしまいそうな感覚がある。
一方で、頭の中には溶けずに残ったカレーのルーみたいに、大学受験のことがちらついている。
悪くないはず。いや、順調そのものだ。このバスのように行き先は決まっているし、終わりはあるはずなのに、この不安感は何だろうか。
――はあ……。
僕がため息をついたタイミングで、バスも大きく息を吐いた。
次のバス停に停車し、ドアが開いた。親子連れが降り、明るい声が夜に溶けていく。バスは代わりに一人の女子高生を飲み込み、ドアが閉じた。
制服姿の彼女はゆっくりと歩き、通路を挟んで僕の隣の席に座った。その瞬間、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。恋……なわけがない。不気味な感じがしたのだ。
バスが再び動き出す。その揺れは先ほどまでの穏やかさを失い、妙に煽られるような感覚がした。
横目で彼女を盗み見る。顔は長い黒髪に隠れ、表情は見えない。肌が白いが、バスの蛍光灯のせいか、どこか不健康そうにも見える。それに、冷たさを想起させた。
と、彼女が突然ぐりんとこちらを向いた。僕は慌てて窓の外に視線を投げた。空で陰る月は、どこか不吉を象徴しているようだった。
もう彼女を見るのはよそう。彼女が何か、非現実的な存在、幽霊や妖怪だとしたら関わらないのが一番だ。
……なんて、そんなことあるはずがない。それに、気になるなら次のバス停で降りればいいさ。
僕は口角を上げて、バスの蛍光灯の明かりに反射して窓ガラスに映った自分を笑ってみた。外の闇と同化しているのか、不思議と黒目の大きさがはっきりとしない。
嫌な感じだ。そう思い、目線を外した瞬間、肌が粟立った。ブツブツと小さな声が聞こえたのだ。寝言だろうか、おばあさんが低い声で何かを呟いている。妙に耳につくその声は、もう念仏にしか聞こえなかった。
僕は降車口に近い席に移動しようと考えた。でも、立ち上がることも窓から顔を逸らすこともできなかった。
金縛りというわけじゃない。彼女が立ち上がったのだ。
そして彼女は――僕の隣に座った。距離は十センチもない。なぜ? なぜわざわざ隣に?
訊ねることはおろか、見ることさえできない。けれど、視界の端にどうしても彼女の存在が引っかかる。まるでその輪郭がこちらに侵食してくるかのように。
僕が彼女のほうを向いた瞬間、彼女の顔がすでに目の前にある。彼女の長い髪が僕の顔に覆いかぶさる。その髪はまったく匂いがしない。彼女の瞳には光がない。そして、大きく開けた口の中は真っ黒に塗りつぶされたかのようだ。まるで、ただの穴だ。そう、目も。三つの穴、その奥で何かが蠢いている。それはゆっくりと這い出てくる。目を逸らせない。逃げようとしても体が動かない。そして、彼女の手が伸びる。僕の目に向かって――なんてそんなこと、あるはずがない。ほら、窓ガラスに映っている。彼女はただじっと座って……手、手だ。彼女が僕に手を伸ばして――
『ピンポーン』
バスの降車ボタンの音が響いた。彼女は手をゆっくりと自分の膝に戻す。
なんだ、ただボタンを押したかっただけか。体の強張りが急に解け、どっと疲れが押し寄せた。窓に映る自分を笑う気力さえなかった。
バスが止まると彼女は無言のまま立ち上がり、バスを降りていった。
その背中を目で追う。いったん姿が消え、窓越しに彼女が見えた。バスの横を通るようだ。
――えっ。
風が吹き、彼女の髪がふわりと舞った。そこから現れた顔と、同時に雲間から姿を現した月。その二つの対面に僕は思わず息を呑んだ。
……奇麗だ。
月は彼女の肌を白く輝かせ、その輪郭を浮き彫りにした。彼女もまた、その月の光に大きな意味を持たせた。ああ、奇麗だ。
ふと、彼女がこちらを見て、にっこりと微笑んだ。その笑顔は一瞬で僕の疲れを吹き飛ばし、僕の胸に残っていたわずかな不安さえも消し去った。
無意識のうち僕は立ち上がっていた。
――そうだ、今ならまだ。あっ。
通路に出た瞬間、足元にビールの缶が転がってきた。
そして、バスが揺れた。「降ります」と声を出す前にバスの扉は閉まり、再びバスは動き出し、僕はただシートに沈んだ。
ああ……言葉もない。でも、幽霊じゃなかったなら彼女はなぜ、僕の隣の席に移動してきたのだろうか。
……ああ、そういうことか。彼女の席に目を向けると合点がいった。
彼女の席の後ろには、いつの間にか会社員らしき男が座っていた。
顎を背もたれの上に乗っけて、どうやら眠っているようだ。彼女はきっと、あの男を避けるために隣に移動してきたのだろう。ただそれだけだ。
僕は小さくため息をつき、シートに体を預けた。それからバスの窓を開けて顔を出し、彼女が歩いて行った方向を見る。
今ならまだ見えるはず。背中や揺れるスカートくらいなら……。
そう思ったのだけど、彼女の姿はどこにもなかった。一本道のはずなのに、何も。どこにも。




