鼻毛の悪魔と天使様 :約2500文字
洒落たレストランに食事に来た男女のカップルがいた。マッチングアプリで出会い、正式に付き合いだしたのはつい先週。このデートを機に、彼女との距離を縮めたいと考える男だったが、ある異変に気づいた。
――鼻が……ムズムズする。
静かに鼻をすすってみるものの、不快感は取れない。彼女との会話に集中しようと努めながらも、男は徐々に確信に至る。
――間違いない。この感じ……鼻毛だ! 絶対に鼻毛が出ている!
男は信じたくなかった。大事なデートのために万全を期してきたはずなのに、鼻毛の存在を見過ごした己の愚行を。
いや、もしかしたらデート中に飛び出したのかもしれない。そう自己嫌悪に陥らなくても……いや、だとしても問題はそこではない。どうやって気づかれずに処理するかだ。
そもそも、彼女は気づいているのだろうか? もしくは疑いを持っていないか? だとしたら目の前で鼻を弄るなんて滑稽な真似はできない。
いや、大丈夫そうだ。彼女の視線に特段の異変はない。軽く緊張しているようにも見えるが、おれの冗談に笑ってくれている。好き。
おっと、つい本音が出てしまった。だからこそ、鼻毛がバレるわけにはいかない。ここまで男を演出してきたのに、台無しだ。
「あの、どうかしました? 顔が強張ってますけど……」
「え、い、いえ、美人と一緒だから緊張してるのかなあ」
「またまたぁ、誉め上手ですねっ」
危ない、危ない。なんとかごまかせた。それにしても彼女は本当にかわいい。少し天然なところもあるが、そこがまた良い。むしろ最高。だが油断は禁物だ。おれの動き一つで鼻毛が露見する危険は常に潜んでいる。
冷静に考えよう。トイレに行って処理するのが一番だが、その手は使えない。なぜなら、さっき行ったばかりだ。頻繁に席を立てば、余計な心配をさせてしまう。それだけならまだしも、腹を下したなんて思われたら最悪だ。
ああ、いっそ自ら暴露してみるのはどうだろう。ギャグっぽく軽く言えば、面白くて正直、それに純粋な人ね、と好印象かもしれない。
『あ、あの』
『は、はい』
『ボク、鼻毛出ちゃったよ~ウィィィィ! イヤッフウゥゥゥゥ!』
……駄目だ。そんなこと言えるはずがない。クールなイメージを自ら手放すのは惜しすぎる。それに、まだ彼女とはそこまでの関係ではない。ただ引かれるだけだ。
だが、こうしている間にも、彼女がこの黒い悪魔に気づく可能性は増していく。早急に手を打たなければ。しかし、どうする……。
「私、ちょっと御手洗いに行ってきますね」
「えっ」
「えっ?」
「いや、どうぞどうぞ! はははははは……」
神はいた。まさに天啓だ。そう、神はおれの鼻の中に巣食う悪魔を滅せよと仰っているのだ。さあ、やるなら今だ……。
男は鼻の右穴に指を突っ込み、一気に鼻毛を引き抜いた。痛みで涙腺が刺激され、涙が一つこぼれ落ちる。指には抜き取った鼻毛が六本。どれが飛び出していたかわからないが、確実にこの中に含まれている。鼻の中の不快感は消えた。もう恐れるものはない。
男はフッと笑い、息で鼻毛を床に払った。
数分後、彼女が戻ってきた。鼻毛を悪魔に例えるなら彼女は天使だろう。愛らしく心を癒してくれる。男はそう思い、顔を綻ばせる。
「ただいま戻りましたあ」
「ああ、おかえ……」
――あ、悪夢だ……。
男は言葉を詰まらせた。彼女の鼻から、黒い悪魔がひょっこり顔を出していたのだ。
口をパクパクさせる男。それを不思議そうに見つめる彼女。男は我に返り、慌ててグラスの水を手に取り、一気に飲み干した。
「ちょ、どうしたんですか!? 急にお水を……」
「ぷはあ、いやー美人を前にしてゴホッゲホッ喉乾いちゃってゲホッ!
オエエッ!」
「もー、照れちゃいますよ。でも、ふふふふ、咽るくらいふふふ一気に飲むなんてあはははっ!」
「いやーはははは!」
なんとか笑ってくれた彼女に、男はひとまず安堵する。だが、現実は変わらない。彼女の鼻の中で黒い悪魔がゆらゆらと踊っている。あまりに堂々としているので、男は寄生虫かと思った。
だが、ふと気づく。あんなに出ているということはすでに抜けているのではないか? それなら、ちょっと鼻から息を吹き出すだけで取れるのでは……? 彼女に恥をかかせるわけにはいかない……やるか。
「むふっー! ふーっ! ふーっ!」
「ふふふははは! 今度はなにー? あはははは!」
「君も! むふっー! やってごらんよ! 鼻から息を出すんだ! むふふっー! 最近話題の健康法だよむふっー!」
大笑いする彼女。一方で男は、自らの機転を褒め称えた。
「さあさあ! 一緒に! むふっー!」
「あははは! わかりましたからあはははは! その顔、ふふふふふ! ひひひひっ! むふっー! こうですね! むふっー!」
「いいぞ! さあ、もっともっとむふっー!」
「はい! むふっー!」
……いいぞ! よし! 飛んだ!
あ。
「ふふふふっ、怒られちゃいましたね」
「ああ、まさか退店を求められるとはね……」
「大騒ぎしちゃいましたもんね、ははははははっ!」
「いやあ、それにしても『著しい迷惑行為』だって、固いよね、まったく! ふふふはははは!」
夜道を歩きながら、二人は笑い合う。彼女が男の腕に自分の腕を絡めた。男は結果、良い雰囲気になったことに安堵した。
彼女と結婚することになるだろう。いや、したい。そう思い、また笑った。
ゆえに気づかなかった。彼女の鼻の下にかすかに残った白い天使の翼に。
そして、それが今拭われ、跡形もなくなったことにも。
――クスリ、また切れてきちゃった……。
そう彼女が呟いたことにも。




