第99話 市場が、全員降りてます
六月に入っても、二枚目は決まらなかった。
代理人からのリストは、二週間ごとに更新される。値段は下がらない。下がっているものは、下がる理由のあるものだった。膝、素行、年齢。理由のある安さはうちには買えない。理由のない安さを要は探していた。そういうものは、市場にはめったに落ちていない。
要は次の手を持っていなかった。机の上に、開いたままの映像がいくつも溜まっていた。どれも途中で閉じたものだった。
宮里澪が事務室に来たのは、その週の水曜だった。
手に紙の束を持っていた。医療の資料ではなかった。
「要さん。これ、見てもらえますか」
宮里は机に一枚目を置いた。外国籍選手の名前と経歴だった。
「マーカス・レイ。二十八歳。アメリカ出身。三年前まで、欧州の一部にいました」
「……無所属ですね」
「はい。去年の四月に、膝を手術してます」
要は資料をめくった。復帰後の成績が、はっきりと落ちていた。得点は半分、リバウンドは三分の一。翌年の契約はどこからも来ていない。市場はこの選手を終わったものとして扱っていた。
「市場が、全員降りてます」
要は言った。
「はい。だから、安いです」
宮里は二枚目を置いた。手術の記録と、復帰までの日数が並んでいた。ページの端に、宮里の字で小さな書き込みがあった。数字の横に、疑問符が一つ付いていた。
「この数字の落ち方は、膝のせいじゃありません」
宮里の声が少し変わった。要が知っている、この人の声だった。診断を、確信を持って言うときの声だった。
「復帰が、三ヶ月、早いです。この術式で、この時期に、この試合数を踏ませたら、誰でもこうなります」
「……早められた、ということですか」
「そう読みます。本人が急いだのか、クラブが急がせたのかは、書いてありません。でも、片方だけということは、まず、無いです」
要は資料を持つ手を止めた。
一年半前、ベイカーのことを、誰かがこう言った。あの人から、手段を全部取り上げたやつがいる、と。
同じ形の話がまた目の前にあった。取り上げられたのは、手段ではなく、時間だった。三ヶ月ぶんの治る時間だった。市場は、その三ヶ月を見ずに、落ちた数字だけを見て、降りていた。
「戻りますか」
要が聞くと、宮里は即答しなかった。そこがこの人だった。数字で言えないことは言わない。言えることと、言えないことのあいだに、この人はいつも、細い線を引いていた。
「戻る種類の怪我です。ただし条件が三つあります。連戦の二日目は、出す時間を決めてもらいます。遠征の移動は、去年の等級を落とさないこと。あと、練習量を私が管理します」
「郷田さんが、嫌がるかもしれません」
「嫌がったら、私が話します」
宮里は言った。迷いのない言い方だった。
「……前の職場なら、こんな紙、作りませんでした。作っても、誰も読まないので」
要は聞いた。
「なぜ、これを」
宮里は少し考えてから答えた。
「止めるだけの仕事は、もう、二年やりました」
それだけだった。彼女は資料を要に渡して、事務室を出ていった。ドアが閉まる音はしなかった。宮里はいつもドアを静かに閉めた。止めるのが仕事だった二年で、この人が身につけた閉め方だった。
映像を郷田が見た。
二十分ほど、黙っていた。それから、一箇所だけ巻き戻した。手術の前の、三年前の映像だった。
レイが、ゴール下で相手を一歩だけ押し戻して、位置を取っていた。跳んでいない。
「こいつ、跳ばずに済ませられる」
郷田は言った。
「膝が悪いやつが、いちばん、しちゃいけねえのは、無駄に跳ぶことだ。……こいつは、元から、跳んでねえ」
郷田は、画面を止めた。止めた場面で、レイの足は、床についたままだった。
「獲れ」
郷田は、それだけ言って、映像をもう一度頭から再生した。二度目は、何も言わずに、最後まで見ていた。
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