第100話 二月に、尽きる
契約は七月の初めにまとまった。
レイは条件を一つも足さなかった。年俸は要が出せるいちばん上の額だった。それでも、代理人リストのどの選手より安かった。
安かったが、潮見にとっては、これまでで最大の買い物だった。市場が降りた選手を、市場が降りた値段で買う。それが要にできるいちばん大きな賭けだった。
浜口が紙を出した。
「新しい損益分岐です」
数字が書き換わっていた。
三千五百が四千二百になっていた。
「レイの年俸と、宮里さんの管理にかかる分と、遠征の等級の維持です。……全部、要さんが決めたことです」
「はい」
「実績の見込みは、三千百です」
浜口はその二つの数字のあいだに線を引いた。定規は使わなかった。それでも、まっすぐな線だった。
「差、千百人ぶん。去年の倍以上に開きました」
事務室が静かになった。窓の外で蝉が鳴いていた。この夏、初めて聞く蝉だった。
「止めませんよ」
浜口は言った。
「去年、俺は宮里さんの費用を渋りました。今年は渋りません。書けない金が、あとから勝ちで書けることは、この目で見ました」
浜口はペンを置いた。
「だから、数字だけ言います」
「去年の暮れ、俺は今季いっぱいと言いました」
「はい」
「訂正します。この一枚で要さんの残りは、今季の途中で尽きます」
浜口は顔を上げなかった。紙の線のところを見ていた。
「二月です。早ければ、一月の終わり」
要はその数字をしばらく見ていた。二月、と書かれたわけではなかった。差の千百から、逆に数えればそこに落ちる。ただそれだけの数字だった。数字はいつもそれだけのことしか言わない。だがそれだけのことが、要の残りの月を決めていた。
それから、こう言った。
「浜口さん。今季中に一試合でいいので、線を超える日を作ります」
「一試合、ですか」
「はい。四千二百を、一度でいいから上回る日を」
浜口が初めて顔を上げた。
「……一試合超えても通年の赤字は、消えませんよ」
「消えません」
要は言った。
「でも一度も超えられないクラブと、一度でも超えたクラブは、来年別のものです。銀行の見方も、町の見方も、変わります。何より」
要はそこで一度言葉を切った。
「二月に僕の金が尽きたあと、このクラブを見る人間があきらめずに済みます」
浜口は何も言わなかった。
しばらくして、電卓を引き寄せてまた叩き始めた。数字は変わらない。それでも叩いていた。同じ答えを、何度も出しては、消していた。指がキーの上で途中で止まる。止まって、また叩く。
「……客席を、増やせませんか」
浜口が言った。
「四千二百って、今のハコの八割四分です。埋めるより、席を足すほうが早い日もある」
「席は足せません。あのハコはあれで限界です」
「ですよね」
浜口は電卓を止めた。
「じゃあ、一人あたりから取るしかない。……売上、ですね」
要はうなずいた。
「一つ、当てがあります」
要は言った。
「去年、屋台のついでに協賛の札を集めました。三百二十七件です。月三千円が中心で、いちばん安いのが五百円。合計は、大口一社ぶんに少し届きません」
「覚えてます。要さんが、一軒ずつ回ったやつですね」
「はい。あれは屋台のついでのつもりでした」
要は言った。
「でもあれだけが、席に関係なく入る金でした。試合に負けても減らない金です」
浜口は少し黙った。それからこう言った。
「……あれを本気でやる、ということですか」
「本気でやる人間が要ります」
要は言った。一人で三百二十七件を集めるのに、去年は半年かかった。それを倍にするには、要の半年では足りない。
浜口は、それ以上聞かなかった。要の頭の中に、もう誰かの顔があることは分かったようだった。
春に紙の一行目に書いた言葉が、その日初めて期限のついた仕事になった。二月までと期限が入った。期限のついた仕事は、要が二年やってきた中で初めてだった。
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