第98話 攫われる
電話が来たのは十日後の夜だった。
要はまだ事務室にいた。窓の外は暗かった。机の上に、二週間後に正式に、と書いた紙が置いてある。その紙を、要は一日に一度見ていた。
代理人の声は事務的だった。悪びれてもいなかった。別のクラブが条件を出した。要の提示の二倍だった。
「日本の、B.ONEのクラブです」
代理人は言った。
「上位の。……あなたのところより、ずっと、上の」
要はしばらく黙っていた。受話器を持ったまま、机の紙を見ていた。
なぜ知られたのか、は聞かなかった。聞くまでもなかった。
日本のクラブが東欧の二部まで見に来ている。その情報そのものが、値段になったのだった。二百人しか客のいない体育館に、極東から人が来る。理由は一つしかない。あの選手には値がつく。
要が値をつけたから、値がついた。
一年前、要は同じことを逆の側から見ていた。安いものを見つけて、拾ってくる側だった。今は見つけたものを上から攫われる側にいた。同じ目利きが、立つ場所を変えると、こうなる。
要は受話器を置いた。置いてから、机の紙を引き出しにしまった。
「あと、いくらなら」
浜口が、翌朝、そう聞いた。珍しく、先に金の話を持ち出したのは浜口のほうだった。この男が金の話を先にするのは、勝ち目があると思ったときだけだった。
「二倍は、無理です」
「知ってます。……一割五分、乗せる余地はあります。今季の遠征の等級を一つ落とせば」
「落としません」
要は言った。
「宮里さんが、二年かけて作った数字です。それを崩して一枚獲っても、来年、脚が折れます」
浜口はそれ以上言わなかった。ペンを一度だけ机で回した。回して、置いた。勝ち目は無いということだった。
ノヴァクとは、通訳を挟んで、一度だけ話した。国際電話は、声が半拍、遅れて届いた。相手の言葉が終わってから、通訳の声がかぶさる。そのずれの中で、要はこの選手の声の調子だけを聞いていた。
彼は言い訳をしなかった。謝りもしなかった。
「母親が、去年、倒れた」
それだけを言った。
それから、少し考えて、こう続けた。
「あなたの言った額のほうが、たぶん、俺の値段としては、正しい」
「……」
「でも俺は、正しい値段では、生きられない」
要は引き止めなかった。引き止める言葉を、要は持っていなかった。持っていたとしても、それは金でしか言えない言葉だった。この選手が要より上のクラブを選ぶのは、実力の話ではなかった。母親の薬の話だった。要にはそこに出せる札が無かった。
電話を切る前に頭を下げた。相手には見えない。それでも、下げた。
「うちで出せなくて、すみません」
通訳がその言葉を訳した。ノヴァクは、少しの間、何も言わなかった。回線の遠い音だけが聞こえていた。
最後に彼はこう言った。
「日本に行く。あなたのクラブとも、当たる。……その日に、俺がどこに立ってるか、見てくれ」
旅費は戻らなかった。七日ぶんの航空券と、宿と、通訳の日当。要の口座から出て、何も残らなかった。手元に残ったのは、六十分ぶんの正の字の紙だけだった。その紙はもうどこのクラブでも使えない紙になっていた。
事務室に郷田が入ってきた。要は伝えた。
郷田は怒らなかった。舌打ちもしなかった。ただ、椅子の背に手をかけて、しばらく立っていた。
「……いくら、上乗せされた」
「倍です」
「そうか」
郷田は、それだけ言ってコーチ室へ戻った。
三本立てた指の一本が、そこで消えた。二つになった。そのことを、二人とも口にしなかった。口にしなくても、机の上の六十行が、それを言っていた。
その夜、要は誰にも会わずに帰った。目利きは、金を持っている人間に上から真似される。それだけのことだった。それだけのことだと、要は自分に一度、言い聞かせた。
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