第97話 給料は、毎月出るのか
体育館の客は二百人ほどだった。
天井が低く、照明が黄色い。一階の観客席は木の長椅子で、後ろの壁に地元の店の看板が並んでいる。ペンキが剥げているものが、半分ほどあった。字が読めなくなっている看板も、いくつかあった。潰れた店の名前が、そのまま残っているのだと、要は思った。
要はいちばん上の段に座っていた。潮見の去年までの匂いがした。人の少ない体育館は、どこの国でも、同じ匂いをする。埃と、床のワックスと、誰かの汗が、薄く混ざった匂いだった。
その選手は背番号九をつけていた。
エミル・ノヴァク。二十五歳。二〇七センチ。
数字は地味だった。一試合で十点、六リバウンド。出場は二十分に届かない。売り込みの映像なら、三十秒も編集できない選手だった。誰も、この選手を曲付きの動画にしようとは思わない。
だが要が見ていたのは、そこではなかった。
ノヴァクは、味方がシュートを打った瞬間に、必ずゴールの内側へ足を入れていた。六十分見て、一度も抜けなかった。跳ばない。位置を取る。相手が跳ぶ前に、跳ばせない場所に立っている。
要は、その一歩を手元の紙に「正」の字で数えた。六十分で、四十を超えたところで数えるのをやめた。数えるまでもなく、この選手は毎回そこに立っていた。習慣になっている動きは、数字に出ない。得点にも、リバウンドにも、ならない。ただ、相手の得点を少しずつ減らしている。
サントスの隣にこれが並ぶ。要はその絵を思い浮かべた。中に二枚。相手が外へ回すしかなくなる絵だった。二年、要が見たかった絵だった。
通訳を連れて、体育館の裏で人に聞いた。
売店の女、用具係の老人、常連らしい男が三人。潮見でやってきたのと、同じことだった。映像に映らないものは、その町の人間がいちばんよく知っている。数字を持たない場所では、人の口が、記録だった。
「あいつは、揉めたんだ」
そのうちの一人が言った。
「前のクラブで、監督とやりあった。それから、干された。使えるのに、評判が悪い」
「何で揉めたか、ご存じですか」
男は少し面倒くさそうに答えた。
「給料だよ。三ヶ月、出てなかった。あいつが、若いのの分まで、フロントに言いに行った」
「……本人の分は」
「本人の分は、後回しにしてた。それで、干された」
評判に値段がついている。実力にはついていない。
要はこの一年半で、同じ言葉を何度か使った。今日、また使えた。値がつくべきところに、値がついていない。値がつくべきでないところに、悪い値がついている。その二つがずれている場所が、要の探している場所だった。
ノヴァクは思ったより静かな男だった。
日本の二部の下から二番目のクラブだと言うと、彼は笑わなかった。順位表を見せろとも言わなかった。窓の外の知らない国の話でも聞くような顔で、要を見ていた。
聞いたのは二つだけだった。
「何分、出られる」
「監督が決めます。ですが、あなたを獲る理由は、出すためです」
「給料は、毎月出るのか」
要はその質問に少し間を置いてから答えた。
「出ます。……遅れたことは、一度もありません」
嘘ではなかった。選手の給料だけは、要が私財を崩してでも、日を守ってきた。給料日を守るために、要が何を削ったかは、言わなかった。言う必要のないことだった。この選手が聞いたのは、金額ではなく、日付だった。三ヶ月出なかった男が聞くのは、いつも日付のほうだった。
握手をした。手が乾いていた。長く働いてきた手の乾き方だった。
条件は要が用意できるいちばん上の額だった。それでも、代理人から来た十一件のいちばん安いものより下だった。ノヴァクは、その額を聞いて、うなずいた。値切りもせず、上乗せも求めなかった。ただ、うなずいた。
代理人が書類を作ると言った。二週間後に正式に。
帰りの空港で、要は浜口にだけ短いメッセージを送った。
いました、とだけ書いた。
送信してから、その四文字をしばらく見ていた。二週間後に、この四文字が、そのままの意味であり続けるかどうかは、まだ分からなかった。
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