第95話 今日、初めて言う
五月の練習場は静かだった。
シーズンが終わって、選手は散っている。誰も打っていないゴールは、リングだけが天井の光を返していた。ネットが、風もないのに、ときどき小さく揺れる。窓が一つ、開けっ放しになっていた。海の匂いがそこから入ってきていた。
床は半分だけが去年張り替えた新しい色をしていた。残りの半分はまだ古い。境目のところで、色が一段、暗くなる。要実はその線をいつも無意識に踏まずに歩いた。半分だけ替えられたのは、去年、それだけの金しか出せなかったからだった。残りの半分は今年もそのままだった。
事務室に入ると、机の上に紙が一枚、置かれていた。
手書きだった。誰のものかは見なくても分かった。鉛筆の押しつける力の強い字だった。線が紙の裏まで凹んでいる。八年ぶん、同じ紙を書いてきた男の字だった。
日付が六十行。今季の全試合。その横に、二つの数字が並んでいる。
三と、二。三と、二。二と、二。三と、二。
左が相手で右がうちだった。
要は、立ったまま上から下まで一度、目で追った。数字は途中で乱れなかった。同じ間隔で、同じ大きさで、六十行、最後まで書かれていた。
「五十一だ」
郷田学はいつのまにか入口に立っていた。上着を着ていない。練習用のシャツのまま、そこにいた。腕を組んでいなかった。この男が腕を組まないのは、珍しかった。
「向こうが三枚並べて、こっちが二枚だった試合。六十のうち、五十一」
郷田は机まで来て、紙の下のほうを指した。そこだけ、線が引いてある。爪で引いた、細い線だった。
「残りの九つは、相手も二枚だった」
「……」
「その九つで、五勝してる」
要はその五を見た。今季の十八勝のうちの五だった。六十試合で三割の勝率のクラブが、その九試合だけ、五割を超えていた。
紙の余白には何も書いていなかった。結論も、言い訳も、書いていない。数字だけが並んでいた。書いた男が、そこから何を言いたいかは、数字のほうが先に言っていた。
「二年だ」
郷田は言った。
「二年、うちは一枠空けて、コートに出してる。同時に立てるのは、外国籍が二枚とアジア枠が一枚で、三人まで。うちはサントスと、李だ。どう並べても、二枚にしかならねえ」
「はい」
「采配で埋まる差じゃねえ。俺は、そいつを二年、言い訳にしなかった」
郷田の声は荒れていなかった。読み上げる声だった。自分の書いた数字を、もう一度、声に出して確かめているようだった。
「今日、初めて言う。外国籍を、もう一枚。……頼む」
要はその紙を机の上でまっすぐに直した。
一年前を思い出していた。
去年の同じころ、要はこの机で、郷田に一枚の名簿を渡した。拾ってきた選手の名前が、並んでいた。郷田は、それを黙って受け取って、黙って使った。八年、駒を選ばせてもらえなかった男に、要は初めて、選べる駒を渡した。あのとき、郷田は礼を言わなかった。ただ、名簿を二つに折って、胸のポケットに入れた。
今日は郷田のほうが紙を持ってきていた。折らずに机に置いていた。
「郷田さん。代理人から来てる話は、全部、目を通しました」
「で」
「全部、値段がついてます。うちが出せる額の三倍から上です」
郷田は笑わなかった。金の話になるとこの男は黙る。八年、駒を選ばせてもらえなかった男は、金の相場を要より知っている。安いか高いかを、映像より先に、額で分かる。分かった上で、二年、その話を一度もしなかった。
「安いのを探すのが、あんたの仕事だろ」
「そうです」
「なら、いい」
郷田が出ていこうとした。要はその背中に聞いた。
「郷田さん。もう一枚あったら、何勝、増えますか」
郷田は足を止めた。しばらく、答えなかった。境目の、色の暗いほうの床に立っていた。
それから、振り返らずに、指を三本立てた。
「三つだ」
郷田は言った。
「……そのうちの一つは、ガルーダだ」
郷田は出ていった。
要は、一人になった机で、もう一度紙を見た。
去年、ガルーダには二十四点差で負けている。その一試合を、要は覚えていた。中を締められ、外へ回され、また中へ戻された。二枚では、どこにも二人を置けなかった。
三つのうちの一つは、ガルーダだ。郷田は、そう言った。
要は、六十行の紙を引き出しにしまわなかった。机の上に、置いたままにした。もう一枚を探す仕事が、その日、始まっていた。
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