第94話 売上を、増やす
シーズンが終わった。
潮見ブルーホエールズ。十八勝四十二敗。B.ONE、十九位。
去年の十勝五十敗、二十四位から。八つ、勝ちを増やし、五つ、順位を上げた。まだ、下位だ。だが、最下位では、もうなかった。
要実は誰もいなくなった体育館の最前列に座っていた。
一年半前、初めてここに座った席だった。あのとき、五千席はすべて空いていた。天井の照明は半分が切れていた。灰色の壁で、痩せた鯨がこちらを見ていた。
照明はまだ全部は直っていない。だが、いくつかは点くようになった。一年半前、要が初めてここに座ったとき、生きている蛍光灯は半分だけだった。今はその半分より、少しだけ多く点いている。ひとつずつ、直してきた。選手を拾うのと同じように、ひとつずつ。
壁の鯨は、まだ、痩せている。だが、その下には、いつのまにか小さな札がいくつも掛かっていた。商店街の店の名前。子どもの手書きの名前。李濬浩の隣の席を指名した子の名前。
この一年半で、拾ってきたものを、要は思い返していた。
跳べない番場。数字に出ない東。無名のリー・ジュノ。守るだけのサントス。問題児と言われた一ノ瀬。準主力の平良。線の細い宇野。止めるだけの宮里。物語を書く佐伯。
どれも他所なら値がつかなかった。潮見にしか、拾えなかった。金が無かったからだ。
だが、その拾ったものが今、回っていた。町とクラブと選手が、一つの輪になりかけていた。
まだ、道の途中だった。
観客は四千に届いていない。売上も、基準の半分と少し。アリーナは絵も無い。そして、その土地はあの財前の手の中にある。ガルーダには、まだ、勝てていない。番場の膝はいつまでもつか分からない。
やることはまだ山のようにあった。次のシーズンも、その次も。昇格の三つの壁は、どれ一つ越えられていない。観客四千。売上十二億。新しいアリーナ。要が当てた七億はとうに底に近い。ここから先は宝くじでは届かない場所だった。町を動かすしか、なかった。
それでも、要は一年半前ほど独りでは、なかった。あのとき、要は五千の空席を一人で見ていた。今は、この席を埋める手を一緒に考える人が、いる。壊れない体を守る人がいる。町の物語を書く人がいる。町の顔になる選手がいる。
要は鞄から一枚の紙を出した。
来季の計画だった。まだ、白い紙に近かった。
要はそこに一行だけ書いた。去年この席で書いたのと、同じ場所に。
去年の紙には、「観客を、増やす」と書いた。その一行を、要はこの一年半で形にした。二千百が三千を超えた。まだ四千には届かないが、確かに動かした。
その下に、要は次の一行を足した。
――売上を、増やす。
集客の次の壁だった。人を増やすだけでは、四千にも、十二億にも、届かない。この町の限られた人数から、どう稼ぐか。一人が落とす金をどう増やすか。屋台で、客単価を上げた、あの日の続きだった。それが次の砂時計だった。
要は立ち上がった。パイプ椅子が、きい、と鳴った。
一年半前と同じ音だった。
だが、あのときと一つだけ違った。あのとき、この体育館には要一人しかいなかった。今は事務室に灯りが点いていた。浜口がまだ、来季の数字を叩いている音がしていた。
要は痩せた鯨をもう一度見上げた。
一年半前、この鯨は灰色の壁に痩せて張りついていた。スポンサーの看板は、色が抜けて、読めなかった。今はその下に、町の札がいくつも掛かっている。読める名前が増えていた。焼き鳥の鍬形。総菜屋。米屋。子どもの手書きの名前。そして、李濬浩の隣の席を指名した、あの子の名も。
鯨は、まだ、痩せている。海を泳いでいた、あのころの大きさには、程遠い。だが、あのときより少しだけ、色が戻り始めているように見えた。海の、青が。
いつか、この鯨が、もう一度海を泳ぐ日まで。壁の札がもっと増えて、席が四千で埋まって、新しい箱があの造船所の跡地に建つ日まで。まだ、長い。だが、要はもう、その道の入り口には立っていた。
要は体育館を出た。
事務室の灯りに向かって、歩いていった。その灯りは去年より消えるのが遅くなっていた。
潮見ブルーホエールズ、再建。まだ、途中――。
だが、五千の空席から始まった物語は、もう要一人のものではなくなっていた。この町のみんなのものになりかけていた。それだけで、去年とはまるで違う場所に、要は立っていた。
(シーズン2 集客編・完)
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