第93話 埋める金のほうが、先に尽きる
シーズンは終わりに近づいていた。
ガルーダには勝てなかった。格上には、まだ、届かない。だが、その下の相手には、勝ち星を重ねていた。守り勝ち。二日目の勝ち。競り勝ち。派手さは無い。一つ一つは地味な勝ちだった。だが、確実に一つずつ拾っていた。
去年、潮見はこういう試合を落としていた。競った試合を、二日目に崩れて、あと一歩で落とす。その、あと一歩を、今年は拾えるようになっていた。東の守備。宮里の守った脚。遠征の宿。番場の育てた志水。一ノ瀬の役割。全部が一点差の勝ちに変わっていた。
そして、シーズンは最終節を迎えた。
潮見は十七勝。あと一つ勝てば、十八になる。去年は十勝で終わった。その八つ上を最後の一戦に賭けた。
相手は中位のクラブだった。競った。最後まで競った。
残り、十二秒。同点だった。潮見ボール。最後の攻撃だった。去年の潮見なら、この場面で誰か一人が無理に打って、終わっていた。個人技でこじ開けようとして、消えた。それが去年の終盤だった。
黒木が、時計を見ながら、運んだ。ベンチの番場が指で間を測っていた。速すぎず、遅すぎず。
残り、五秒。黒木がゴールへドライブした。相手が二枚、黒木に寄る。ゴール下が空いて、東がそこへ走り込んだ。黒木のパスが東へ通る。
だが、東は、打たなかった。
戻ってくる相手の逆。逆サイドで志水が空いていた。東がそこへはたいた。守って、走って、合わせる。番場が、何百回も言った、その最後の一つだった。
志水がゴール下で受けた。外国籍が当たりに来る。去年の志水なら、その圧から逃げていた。今日は逃げなかった。番場のフォームで、宮里の守った体で、当たりをこらえて置きにいった。
ボールは、リングの内で、二度、跳ねた。そして、落ちた。中へ。
ブザーが鳴った。
十八勝目だった。派手な個人技ではない。五人の手を渡ったボールが、最後にいちばん圧を食らう場所で、こらえた一本だった。眠れる遠征の宿。折れない脚。番場が教えた、守って走って合わせる順番。全部がこの最後の一本に詰まっていた。
三千人が立ち上がった。負け慣れた体育館が、勝ちで沸いていた。去年、二十点差で負けて前半で半分が帰った、あの体育館だった。
試合後、いつものように子どもたちがコートで走った。一ノ瀬が仕切っていた。その隣で、宇野が初めて子どもと走っていた。宇野はまだ、この町の子の顔を知らない。だが、来年には覚えているだろう。一ノ瀬がそうなったように。
東が走れない子の隣にいた。平良が客と喋っていた。C列のおっちゃんと、売店の婆ちゃんと。番場が二階からそれを見ていた。もう、コートにはいない。だが、二階から若手が育つのを見ている。宮里が、その番場の膝に、そっと手を当てていた。勝った日の疲れを確かめるように。
一つの輪だった。誰が欠けても回らない輪だった。
要はその全部を最前列から見ていた。一年半前、この同じ席から見たのは、五千の空席だった。今、同じ席から見えるのは、走る子どもと、残る客と、育つ若手と、それを見守る、老いた背番号だった。
翌日、浜口が、事務室のホワイトボードにその数字を書いた。
十八勝。
去年は十勝だった。八つ、増えていた。順位も最下位圏を脱していた。まだ下位だが、あの一番底からは、確かに離れていた。
「十八勝ですよ、要さん。しかも、最後、勝ちで締めた」
浜口の声が弾んでいた。
「去年の、倍近い。……こんなの、就任のとき、誰が想像しました?」
要はその数字を見ていた。だが、いつものように、すぐには喜ばなかった。
勝ち星は来るか来ないかだ。運もある。要がほんとうに積み上げたのは、その裏の地味な数字のほうだった。総離脱日数、リーグ最少。客単価、倍。動員、四割増。前半で帰る客、ゼロ。……最後の一本も、その積み上げの上に乗ってきたものだった。
去年、要は浜口に言った。惜しい、は売り物にならない、と。今年、その惜しい負けが、少しずつ勝ちに変わった。変えたのは采配でも根性でもない。眠れる宿と、折れない脚と、繋がるパスだった。
浜口が、もう一枚、紙を出した。勝ち星の紙ではなかった。
「要さん。今季の締めです」
浜口の声から、弾みが消えていた。
「売上、七億五千万でした。去年が、六億五千万です。……一億、増えました」
「去年の伸びは、五千万でした」
「はい。倍です」
浜口はその紙を指でなぞった。
「十二億まで、あと四億五千万。……この伸び方だと、四年半です」
去年の春、同じ計算をしたときは、十一年だった。
「動員が増えて、客単価も上がりました。損益分岐までの差は、開幕の九百人から、五百人ぶんまで、縮んでます。……赤字が、去年の半分近くまで減りました」
「半分近く」
「はい。初めて、こっちが、押してます」
浜口はそこで少し間を置いた。
「でも、その五百人ぶんは。……今も、要さんの私財が、埋めてます。一試合ずつ」
要は何も言わなかった。
浜口はその紙を要のほうへ滑らせた。要がこの一年で、私財から埋めた額だった。番場が、遠征の宿と、宮里の分も。ぜんぶ、そこに乗っていた。番場が、ドアの手前で気づいた、あの金だった。
「七億の残りから引くと」
浜口は言った。
「……来季を、いっぱいまで戦ったら。ぎりぎり、です。その次の季は、この埋め方はもうできません」
事務室が静かになった。
「分かってます」
要は言った。
「赤字が半分になっても。埋める金のほうが、先に尽きる。……間に合うかどうかの勝負です」
浜口はうなずいた。
「だから、来季は。人を増やして客を呼ぶだけじゃ、足りない。……一人ひとりから、もっと、稼がないと。あの五百人ぶんの線を、要さんの財布じゃなくて、売上で、超えないと」
要はその数字をしばらく見ていた。減った。だが、減らした先に、底が見え始めていた。
ホワイトボードの隅を見た。
四千。
観客の平均は三千を少し超えたところで止まっていた。まだ、千足りない。売上も、基準の半分と少し。アリーナは絵も無い。
「まだ、届いてません」
要は言った。
浜口は、その横顔を見て、今度は笑った。責める顔ではなかった。
「知ってます。要さんは、四千になるまで喜ばない。……去年も、そう言ってました」
「ええ」
「でも、要さん。去年は、一人で言ってました。今年は、みんながいる」
要は事務室を見回した。
浜口がいる。宮里が選手の脚の数字を追っている。佐伯が次の記事を書いている。壁には平良のイベントのポスターが貼ってあった。
去年この部屋には、要と浜口しかいなかった。二人で、電卓を叩いていた。運転資金が来季までもつかどうか。それだけを数えていた。もつかどうか、ではない。もたせられるか、どうかを。
一つずつ、拾ってきた。数字に出ない選手。金にならないスタッフ。誰も値付けしなかったものを。宮里も佐伯も、去年はこの部屋にいなかった。他所なら、雇う理由の無い人たちだった。予防しかしないトレーナー。地味な記事しか書けない広報。それが今、この部屋を埋めて、クラブを回していた。
要は、その数字を喜ばなかった。だが、この部屋の灯りの数だけは、去年より増えていた。それは、数えなくても分かった。人が増えたぶん、要が一人で背負うものは、少しだけ軽くなっていた。去年の要なら、それを贅沢だと思った。今は、資産と呼べる。
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