第90話 誰も、帰らなかった
ガルーダ戦はホームだった。
三千二百人が入った。潮見の今季最多だった。屋台には列ができていた。子どもたちは、託児から戻って試合後のかけっこを待っていた。
そして、コートの上では格の違いがはっきりと出ていた。
ガルーダの外国籍は、二枚とも当たりだった。一枚はゴール下で背中から押してくる。もう一枚は、外まで出てきて、決めてくる。潮見にはコートに出せる外国籍がサントス一枚しかいない。リー・ジュノはアジア枠だ。
サントスはゴール下の一枚についた。郷田が仕込んだ、あの守備型だった。背中を、先に、封じる。ポストでボールを持たせない。サントスはその一枚を確かに殺していた。
だが、外へ出たもう一枚が、空いた。サントスがゴール下を締めるほど、外の一枚が、フリーになる。日本人のビッグが慌てて外へ寄る。すると今度はゴール下が空く。ボールが内と外を二度回るだけで、潮見の守備は後手に回った。寄せて、崩されて、また寄せる。五人で、四人ぶんの陣地を守っているようだった。
去年、浜口が伝えてきた言葉を、要は思い出した。「うちは毎試合、一枠空けて戦ってるようなもん」。その一枠がそのまま点に変わっていた。二枚を二枚で守るクラブと、二枚を一枚半で守るクラブの差だった。
前半で点差は二十に開いた。
要はそれを、関係者席から見ていた。悔しさはあった。だが、驚きは無かった。これが格上と格下の差だった。潮見が一年半かけて縮めたのは、事業の差だ。競技の差はまだここまで開いている。金をかけて集めた選手の層が、そのまま点差になっていた。
去年と同じだった。いや、去年より、静かだった。去年は、大差になると、客が帰った。前半のうちに半分がいなくなった。今日は、誰も、帰らなかった。三千二百人が最後まで座っていた。それが去年との唯一の、そして大きな違いだった。
負けている。それでも、この人たちは、帰らない。要が一年半かけて作ったのは、その一点だった。勝てなくても、来てくれる客。負けても、席を立たない客。それは金では買えないものだった。
第三クォーター。
綱島がコートに戻ってきた。三十を過ぎても、まだ主力を張る体だった。
その綱島に番場がついた。
要はそれを見ていた。二人が同じコートで向き合うのを。かつての二枚看板が。片方は格上のユニフォームを着て。片方は膝にテーピングを幾重にも巻いて。
綱島が仕掛けた。右へ、ジャブ。番場の重心がそちらへ動いた。その一瞬で綱島は逆へ抜けた。昔なら、番場の足がついていった。今日は、半歩、遅れた。膝がその半歩を返してくれなかった。
誰の目にもそれは明らかだった。かつて、この二人が並んだとき、抜かれる番場など誰も見たことがなかった。守りの番場。決めの綱島。その番場が今、綱島の背中を追えずにいる。時間は残酷だった。
だが、番場は下がらなかった。
抜かれてもまた綱島の前に立った。綱島が緩めて、また速める。その緩急に、番場の膝はいちいち置いていかれた。もう一度、抜かれた。それでも、また、立った。点差は開いていく。番場は綱島から、一本も守れていない。
それでも、立ち続けた。
客席から、声が飛んだ。「番場!」と。負けているのに。守れていないのに。三千二百人がその抜かれ続ける背番号を呼んでいた。
綱島の手が一度止まった。
その声を、聞いたのかもしれない。かつて、自分もこの町で呼ばれていた声だった。
綱島は番場を一瞬、見た。それから、また仕掛けた。
だが、番場はその一本を待っていた。
速さではもう勝てない。膝がついていかない。だから番場は、抜かれ続けながら、綱島の癖を数えていた。右へジャブを入れて、逆へ。緩めてから、また、右へ。長く隣で見てきた男の手の内だった。
綱島が右へジャブを入れた。
番場は動かなかった。釣られなかった。
綱島が逆へ踏み込む。その踏み込む先に、番場はもう立っていた。膝で追ったのではない。読みで先回りしていた。
綱島の肩が番場の動かない体にぶつかった。
笛が鳴った。
オフェンスファウル。綱島のチャージング。番場は、一歩も、跳んでいない。ただ、そこに立っていただけだった。跳べない男に残された、たった一つの守り方だった。
一本だけ。この試合で、一本だけ番場は綱島を止めた。跳ばずに止めた。
客席が爆発した。二十点、負けているのに。たった一本の跳ばない守備で。
試合は二十四点差で負けた。
大敗だった。スコアだけ見れば、去年と何も変わらない、いつもの惨敗だった。だが、要の手元のメモには、片鱗がいくつも残っていた。
一ノ瀬がガルーダの若手相手に一歩も引かなかったこと。相手は、指名を受けて入った、エリートの若手だった。一ノ瀬は、指名から漏れた、部員七人の高校出身だ。その二人が、同じコートにいるあいだ、互角にやり合った。
志水がゴール下で、外国籍と当たって吹き飛ばされながらも、リバウンドを二本取ったこと。去年の志水なら、当たる前に逃げていた。今は逃げずに当たっていた。番場のフォームと、宮里の守った体で。日本人のビッグが、外国籍と正面からぶつかっていた。まだ、勝てない。だが、逃げてはいなかった。
東が、いつもどおり、四十分走り続けたこと。リー・ジュノが、二十点差の第四クォーターも全部、戻っていたこと。
そして、番場が一本、綱島を止めたこと。
どれも、スコアには載らない。二十四点差の中に、埋もれている。去年は、無かったものだった。要は、そのメモを閉じた。負けは、負けだ。だが、この負けは、去年の負けとは中身が違った。
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