第88話 線が、止まった
志水玲央は、後半戦、調子を上げていた。
脛はもう痛まなかった。宮里が止めたあの時期を越えて、稼働率はほぼ百パーセントになっていた。一度も離脱していない。番場に教わったフォームで、志水は少しずつ点を取り始めていた。
その志水を、宮里が毎試合確かめていた。着地の左右差。走行距離。数字はもう逃げていなかった。
「番場さんに教わって。宮里さんに止めてもらって。……俺、運がいいっすね」
志水が言うと、宮里は少しだけ笑った。
「運じゃないです。……止めたときは、あなた怒ってましたよ」
「……忘れてください」
志水は耳を赤くした。
同じころ、平良大和は商店街にいた。
佐伯の企画で、平良が地元の子どものバスケ教室を開くことになっていた。場所は体育館の試合後の空いたコート。子どものかけっこと同じ場所だった。
平良は子どもに囲まれていた。試合にはあまり出ない。それでも子どもたちは、平良を知っていた。町のあちこちで平良に会うからだ。商店街。公園。学校の体育館。
「たいらせんしゅ、しあい、でないの?」
一人の子が聞いた。
平良は少し詰まった。それから、笑って答えた。
「出るよ。……でも、コートに出てない時間も俺の仕事なんだ。こうやって、みんなとバスケするのも」
要はその言葉を離れて聞いていた。
一年前の平良なら、言えなかった言葉だった。コートに出てない時間も、俺の仕事だ。それを、恥ずかしがらずに子どもに言える。準主力であることを、負い目でなく役割として引き受けている。
平良のバスケ教室は、すぐに評判になった。母親たちが子どもを連れてきた。試合の券も一緒に買っていった。平良に習った子が、試合の日平良の名を呼ぶ。その親が屋台で金を使う。また一つ、輪の中に繋ぎ目ができていた。
佐伯がその様子を記事にした。見出しは地味だった。『試合にあまり出ない選手のいちばん忙しい一日』。だが、その記事は静かに読まれた。
事務室で、要は二つの数字を並べていた。
一つは平良の集客への貢献。平良が関わったイベントの動員。平良のグッズの売上。数字はじわりと伸びていた。競技の準主力が、事業の主力になりかけていた。
もう一つは宮里の数字だった。今季の選手の総離脱日数。リーグでいちばん少なかった。桧山を失った相手クラブとの差が、そこにはっきりと出ていた。
どちらも去年は無かった数字だった。
浜口がその二枚を覗き込んだ。
「平良さんも、宮里さんも。……去年なら、どっちも切られてた側ですよね」
「そうです」
要は言った。
「準主力でムラのある選手。金がないのに雇った、トレーナー。……数字だけ見たら、どっちも贅沢です」
「それが、今はうちのいちばんの資産だ」
浜口は言った。
要はペンを置いた。書くことが無かった。
浜口は電卓を引き寄せた。指が少し動いた。
「平良さんの集客で、客が増えました。宮里さんのおかげで、選手が折れない。……折れないってことは、代わりを慌てて獲る金も要らない」
浜口は二枚の数字の隅に小さく書き足した。
「損益分岐が、三千五百のまま止まってます。……宮里さんに、遠征に、金は増えたのに。上がらなかったのは初めてです」
要の手が止まった。
「上がらなかった?」
「平良さんが呼んだ客と、宮里さんが減らした出費が。増えたぶんを、ちょうど相殺しました。……投資が初めて自分の首を絞め返さなかった」
浜口は続けた。
「そのうえ実績が三千に、あと少しのところまで来てます。分岐が止まって、実績が伸びた。……差が初めて縮みました」
要はその数字をしばらく見ていた。
「持ち出しは」
「減りました。開幕は、一試合あたり九百人ぶん、要さんの私財で埋めてました。今は六百人ぶん。……まだ、埋めてます。でも、初めて減った」
増え続けるはずの線が、初めてこちらへ動いていた。
「これ僕がいい手を、打ったからじゃないです」
「わかってます」
浜口は言った。
「平良さんが、ただで町を歩き続けた。宮里さんが、責められても脚を数え続けた。……その二人ぶんが、いま線を押し戻してます」
「浜口さん」
要は言った。
「うちは、他のクラブが切るものを拾ってここまで来ました。番場のときからずっとです」
要は二枚の数字を揃えた。
「一枚ずつは、贅沢に見える。切ったほうが、帳簿はきれいだ。……でも、その贅沢を切らずに拾い続けたら。いつのまにか、回り始めてました」
浜口はその言葉を聞いていた。
「要さん。それ去年の要さんが聞いたら、信じましたかね」
「信じないでしょうね」
要は言った。
「去年は一勝でも欲しかった。目の前の運転資金で、精一杯でした。……集客の顔とか、折れない体とか。そんな贅沢考える余裕がなかった」
「今は、考えてる」
「考えられるように、なりました。……回り始めたからです」
要は二枚の数字を引き出しにしまった。贅沢に見えたものが、いちばんの資産になる。それが分かるまでに一年半かかった。
切っていれば、帳簿はきれいだった。平良も宮里も去年の要なら、たぶん切っていた。切らなかったのは、正しかったからではない。ただ、切れなかっただけだ。金が無くて、拾ったものを、手放せなかった。その貧しさが結果として、いちばんの財産を手元に残していた。
窓の外を要は見た。
冬が終わりかけていた。シーズンも残りわずかだった。
十八勝にはまだ少し足りない。だが、去年の十勝五十敗の潮見とは、もう別のクラブだった。観客は三千を超える日が出てきた。選手は折れなくなった。町は回り始めた。
そして、まだ一度も勝てていない相手がリーグに一つ残っていた。
湊川ガルーダ。
かつて番場と組んでいた綱島が、今も主力を張る格上のクラブだった。
シーズンの最後に。潮見はその壁と初めて当たることになる。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




