第83話 東京から、来た
大洋重工の本社は、東京の川沿いに建っていた。
古いビルだった。だが、潮見の体育館とは、古さの質が違った。磨かれた石の床。天井の高いロビー。壁には、造船で栄えたころの大きな船の写真が、何枚も飾られていた。斜陽になっても、過去の大きさだけは、まだ壁に貼ってある。
要実はその一枚をしばらく見ていた。写真の船は海に浮かんでいた。今の大洋には、もう造る船が、あまり無い。
(……うちと、同じだ)
痩せた鯨と、動かなくなった造船所。見捨てた側も、見捨てられた側も、同じように痩せていた。
通されたのは上の階の応接室だった。
財前は時間どおりに来た。一年ぶりだった。
「わざわざ、東京まで。恐縮です」
財前は微笑んだ。悪意のない顔だった。あのときと同じ顔だった。潮見のひび割れた駐車場に、黒い車で来たときと。
要は腰を下ろした。ソファはスプリングが、一つも抜けていなかった。
要がこの呼び出しに、わざわざ東京まで来たのには、理由があった。断ることもできた。要は大洋の子会社ではない。クラブは要が自分の金で買ったものだ。財前に、要を呼びつける権利は本当は無い。
それでも、来た。この男が何を考えているのかを、知っておきたかった。いつか、もう一度向き合うことになる相手だと、分かっていたからだ。敵の顔は早いうちに見ておくに限る。
机の上に、一枚の紙が置いてあった。
要には、それが何か、すぐに分かった。潮見の、後半戦の数字だった。観客動員。勝ち星。売上の伸び。誰かがきれいにまとめたものだった。大洋の誰かが潮見をまた数字で見始めている。その事実だけで要には十分だった。
「見せていただきました」
財前は言った。
「正直、驚きましたよ。二千百だった観客が、三千に近い。連戦の二日目にも、勝つようになった。……去年のあの体育館とは、別のクラブのようだ」
「同じ体育館です」
要は言った。
「ええ。同じ、あのボロですよ。だからこそ、驚いている」
財前はその紙をもう一度見た。
「箱は、変わっていない。選手もたいして変わっていない。番場は、まだ膝を引きずっている。外国籍も無名のままだ。……なのに、客が増えて、勝ちが増えた。理屈が、合わない」
「理屈は、あります」
要は言った。
「あなたが、値をつけなかったものに、値がついただけです」
財前は少しのあいだ要を見た。それから、また微笑んだ。その言葉の意味を面白がる顔だった。だが、腑に落ちた顔では、なかった。
財前はその紙を指で軽く叩いた。
「一年前、私はこう言いました。地方の道楽だ、と。一年、保つかどうか、と」
「憶えています」
「保ちましたね」
財前は言った。
だが、その声に負けを認める色は無かった。ただ、事実を確かめる声だった。
要は何も言わなかった。ここで、勝ち誇る気は無かった。一年保ったことは、財前に言われるまでもなく、要がいちばんよく知っていた。
「ですが」
財前は続けた。
「要さん。これは、いつまで続くと思いますか」
「……」
「屋台。子ども。物語。……面白い。よく、やっている。ですが、それはぜんぶ、小さい金です。積み上げても、三千人。売上も、まだ、基準の半分でしょう」
財前は、紙を要のほうへ、滑らせた。
「小さい金をいくら束ねても、大きな箱は、建たない。……新しいアリーナ。あなた、それが要ると、分かっているはずだ」
要はその言葉に初めて目を上げた。
財前は微笑んでいた。
「昇格には、五千の新しい箱が要る。何十億の話です。宝くじの残りでは、届かない。小口の協賛でも届かない。……そこは、あなたの得意な『誰も値付けしないもの』では、どうにもならない」
財前はそこで少し身を乗り出した。
「それにです。その、宝くじの残り。……今も、減り続けているのでは?」
要は答えなかった。
「客が三千でも、基準の売上には、まだ、遠い。ということは、今の潮見は、赤字だ。……その赤字を、浜口さんはどう埋めている。あの人の帳簿は、きれいすぎる」
財前は要を見た。
「自分の懐から、埋めているでしょう。あなたが」
要は否定しなかった。帳簿を読む目だった。ごまかしたところで、いずれ、数字が答える。
「しかも、たちが悪い」
財前は言った。
「あなたが手を打つほど、月々の出費は、増える。人を雇い、遠征に金をかけるほど、埋める額も、増える。……善い手を打つほど、あなたの残りは、速く減る」
財前は茶に手を伸ばした。
「私が何もせずとも、あなたは勝手に痩せていく。アリーナの話をするころ、あなたの手元に、いくら残っているか。……私は、それを待てばいい」
要は黙って聞いていた。
財前の言うことは正しかった。アリーナは、これまでのどの一手とも、桁が違う。屋台の思想では建たない。東を拾ったやり方でも、小口を束ねたやり方でもあの箱は、建たなかった。そこだけは要にもまだ絵が無い場所だった。
そして財前は、要のいちばん弱いところを、正確に突いてきていた。この男は無能ではない。切り捨てるのも、近づくのも、いつも数字を見てからだった。潮見を切ったのも数字を見てだ。そして今、また数字を見て戻ってきた。
「そのとき」
財前は言った。
「あなたは、誰かに、頭を下げることになる。……大きな金を、持っている、誰かに」
財前は、川の見える窓の外へ、目をやった。
その視線の先に、要は何があるのかを悟った。
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