第82話 あんた、自分の金で、埋めてるのか
翌週の連戦は遠征だった。
土曜、潮見は競り勝った。二点差。いつもどおりだった。
問題は日曜だった。
日曜の朝、選手たちは、ホテルで朝食を摂っていた。バスの中ではない。ちゃんと寝た顔をしていた。
宮里澪は、その朝、一人ずつ脚の張りを確かめていた。
「番場さん、膝は」
「……いつもの二日目より、軽い」
番場は言った。少し、意外そうだった。
「昨日、寝れたからな。バスじゃ、こうはいかねえ」
宮里はうなずいた。何も、言わなかった。ただ、手帳に小さく書き込んだ。誰にも見せない数字だった。
日曜の試合が始まった。
第四クォーター。要実は中継の画面を事務室で見ていた。粗い映像だった。アウェイの中継は、いつもカメラが遠い。それでも、選手の走り方は分かった。
いつもの二日目なら、この時間帯、潮見の足が止まる。走れなくなって、離される。それが後半戦の形だった。相手もそれを知っている。二日目の潮見は後半に崩れる。そこを突いてくる。
だが、今日は走れていた。
東がまた二人ぶん走っている。サントス一枚に相手が二人を当ててくるようになってから、外の穴は結局、東が埋めていた。番場が、膝をかばいながらも、要所で止めている。志水の穴を、一ノ瀬が役割どおりに埋めている。守って、走って、合わせる。番場が教えた、あの順番だった。
相手がいつもの時間に仕掛けてきた。潮見が崩れるはずのその時間に。
だが、崩れなかった。二日目の第四クォーターに、五人がまだ立っていた。眠った脚がそこに立っていた。
競った。
残り十秒。潮見が一点、リードしていた。相手ボール。二日目の潮見なら、この最後の守備で足が止まって、抜かれる。いつもなら、そうだった。
だが、東が抜かせなかった。番場がゴール下を締めた。一ノ瀬が、走って、戻った。五人が最後の十秒を走り切った。
相手のシュートがリングを外れた。
最後まで競った。そして、一点差で潮見が、勝った。
連戦の二日目だった。後半戦、初めての二日目の勝ちだった。派手な勝ちではなかった。だが要はこの一点差の重さを知っていた。眠れなかった脚では、この十秒は、守れなかった。
事務室で、要はその勝ちを手帳に書いた。
だが、要が長く見ていたのは、勝敗ではなかった。
その隣の数字だった。日曜の第四クォーターの走行距離。土曜と、ほとんど変わっていなかった。
二日目に足が残っていた。
眠った分だけ。食べた分だけ。移動を変えた分だけ。
浜口が入ってきた。
「勝ちましたね。二日目に」
「ええ」
浜口は椅子に座った。それから、少し言いにくそうに言った。
「……あの、遠征の費用ですが」
「やめますか」
「いえ」
浜口は首を振った。
「続けましょう。……宮里さんの言った通りでした。あの人の言う『書けない金』は、あとから勝ちで書けるようになる」
浜口は少し笑った。
「俺、最近、あの人のことを、信じ始めてます。……数字で書けないものを、信じるなんて、俺らしくもない」
要はその言葉を聞いていた。
数字で人を測ってきた男が、数字にならないものを、信じ始めている。
要が一人で立っていた場所に、宮里が来て、浜口も来た。証明されないものを、抱えて待つ場所に。
「浜口さん」
要は言った。
「うちの循環は、ホームだけじゃ、なかったんですね」
「循環?」
「町が、金を落とす。それを、遠征の宿に回す。選手が、二日目に勝つ。勝ちが、また、客を呼ぶ。……そのあいだに、選手が屋台の看板になって、子どもと走ってる。ぜんぶ、繋がってました」
要は言った。
「去年は、どこも繋がってなかった。今は、回ってる。……ゆっくりですけど」
浜口はうなずいた。その顔はもう費用を渋っていた男の顔ではなかった。
その連戦から戻った日の夜だった。
事務室に番場剛が来た。めったに来ない男だった。用がなければ、フロントには寄りつかない。
「浜口は」
「もう、帰りました」
番場はうなずいた。浜口のいない時間を、選んで来たようだった。
番場は要の机の前に立った。しばらく、何も言わなかった。それから、低い声で切り出した。
「あの宿代。新幹線代。……いくら、かかってる」
要は答えなかった。
「俺は、十七年、ここにいる」
番場は言った。
「金のねえクラブだってことは、誰よりも知ってる。……跳べもしねえ俺に、去年までいくら払ってたかも、知ってる。あれが、どんだけ重かったかも」
番場の声は責める調子ではなかった。金の話を、金を知る人間として、していた。
「そのクラブが、急に新幹線だ、ホテルだって使い始めた。宮里も、佐伯も、雇った。……客は、増えた。でも、増えた客の金くらいじゃ、追いつかねえ。俺は、その勘定ができる」
要はまだ黙っていた。
「浜口が涼しい顔してられるってことは、どっかから金が来てるってことだ」
番場は要を見た。
「あんた、自分の金で、埋めてるのか」
事務室が静かになった。
要はすぐには答えなかった。ごまかせる目ではなかった。金の重さを、身をもって知っている男の目だった。
「……足りない分は」
要はそれだけ言った。
「そうか」
番場はそれ以上聞かなかった。
要も続けなかった。宝くじの残りが、あと何季で底をつくか。人を一人増やすたびに、埋める線が上がっていくこと。話せば、番場が、背負う。この男はまた自分が重しだと思ってしまう。
「昔の俺は」
番場がぽつりと言った。
「跳べもしねえのに、金だけ、もらってた。……クラブを、食い潰してる側だと、思ってた」
番場は窓の外を見た。
「今は、あんたが一人で食われてるんだな」
要は何も言わなかった。
番場はそれきり背を向けた。ドアの手前で、一度だけ、止まった。
「……勝つよ。二日目も、その先も。あんたが、金を捨ててるぶん、こっちは、脛が折れるまで走る。それで、釣り合わせる」
そう言って、番場は出ていった。
要は、一人、事務室に残った。
見抜かれたことは痛かった。だが、どこかで少しだけ、楽になっていた。一人で抱えていた数字を、責めもせず、憐れみもせず、ただ「走って釣り合わせる」と言って出ていった男が、一人、いた。
要は机の引き出しを開けた。宝くじの残りを書いた、一枚の紙があった。誰にも見せていない紙だった。
その数字をしばらく見ていた。
去年より、確かに減っていた。
それから数日して、要のところに一本の連絡が来た。
用件は短かった。潮見の観客動員と、後半戦の成績について、話を聞きたいという。
報告する義務はない。
たぶん、大洋もそれは知っている。
それでも連絡してくる程度には、増えた客と、伸びた勝ちが気になり始めたらしい。
差出人の名に要の目が止まった。
財前。
一年半前、このクラブから手を引く判を押し、ベイカーを押しつけた男の名前だった。潮見が、いちばん弱かったころ、この町を切り捨てた男。
その男が、潮見が回り始めた、いま。もう一度、こちらを、見ていた。
要は、その名をしばらく見ていた。回り始めた輪を外から、冷たく数える目が、一つ増えた。要は、まだ取り合わなかった。だが、この輪が大きくなるほど、その目もまた近づいてくる。要は、それだけは、分かっていた。
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