第8話 勝つための駒じゃない
三日後。その日は朝からみぞれ混じりの雨だった。
要実は約束どおり、番場 剛の前に立っていた。場所はあの練習場。窓を叩く雨の音が、がらんとしたコートに低く満ちている。
番場は腕を組んで警戒するように要を見ている。この三日、この男が何を考えていたのか――その顔からは読めなかった。ただ目の下の隈だけが、あまり眠れていないことを告げていた。
「話ってのは、なんだ」
番場が先に口を開いた。
「切る話か、残す話か。……どっちだ」
「契約は続けます」
番場の眉がぴくりと動いた。そしてすぐに苦い顔になった。
「……情けはいらねえと言ったはずだ」
「情けじゃありません」
「じゃあ、なんだ」
番場の声が低くなる。
「動けねえベテランを恵んで、置いといてやる。……そういう話なら、いらねえ」
番場は床のボールを拾い上げた。乱暴に壁へ叩きつける。跳ね返った球が、がらんとしたコートに大きく響いた。
「俺はな、選手だ。コートで点を取って、勝つ。それが俺だ」
その声が震えていた。
「若いのの子守をするために……この膝をここまで痛めつけてきたわけじゃねえんだよ!」
番場の視線が一瞬、天井のあたりを彷徨った。
――満員の、あの日。五千の声が自分の名前を呼んでいた。ブザーと同時にねじ込んだ一本で、体育館がひとつになった、あの夜。
その記憶と、いま手の中にある、冷えたボール。その落差がこの男をいちばん苦しめているのだと、要には分かった。
それは怒りだった。自分をまだ諦めきれない男の。
要はその怒りを正面から受け止めた。逃げもせず。反論もせず。
そして静かに言った。
「さっき来る前に、あの子の記録を見せてもらいました」
「……記録?」
「志水です。番場さんが居残りで教えてる、線の細いビッグマン」
要は続けた。
「番場さんがフォームを直し始める前と、後。……あの子の、練習後のシュート成功率です」
要はそれ以上、価値がどうとか役割がどうとか言わなかった。
ただ、一枚の紙を番場のそばのベンチに置いた。
汗で端の反った、手書きの記録用紙。番場が毎日若手に付き合っている、その隣で、要がこっそり数えていたものだった。
「上がってるんですよ。はっきりと」
番場が黙った。叩きつけようとした二球目を、手の中で止めたまま。
「……そんなもん」
番場が絞り出すように言う。
「点にはならねえ」
「今はなりません」
要は認めた。
「でも三年後には、なるかもしれない。あの子が点を取る選手に育ったとき」
一拍置いて。
「それを作ったのは、番場さんです。……その仕事に値段をつけてないのは、世間のほうだ」
練習場が静まりかえった。
番場の手の中で、ボールがゆっくりと床に落ちた。こつん、と乾いた音を立てて。
番場は長いあいだ動かなかった。うつむいて、自分のテーピングだらけの膝を見ていた。
サポーターの端から覗く、幾筋もの手術痕。それを大きな手が無意識になぞっている。
この膝は、もう、あの夜のようには跳べない。それは番場自身が誰よりも知っていることだった。
やがて、そっぽを向いたまま言った。
「……俺は、まだコートに立てる」
「知ってます」
「点も取る。子守だけの選手には、ならねえからな」
「どうぞ。……取ってください」
番場はそれきり何も言わなかった。
「受け入れた」とは言わなかった。だが「切ってくれ」とも――もう、言わなかった。
番場は、ベンチに置かれたままの、あの手書きの記録用紙にちらりと目をやった。
それから、ぶっきらぼうな手つきでそれを拾い上げる。乱暴に折りたたんで、ジャージのポケットに押し込んだ。捨てはしなかった。
それでいい。要はそう思った。
三十四年分の意地が、たった一度の会話で片づくものか。
――ほどくのに、これから五年かけよう。
そのとき。練習場の入口から低い声が飛んできた。
「――ずいぶん、あったけえ話じゃねえか」
要が振り返る。そこに日に焼けた厳つい顔の男が立っていた。太い腕を組んでいる。
ヘッドコーチ、郷田 学。
番場がはっと背筋を伸ばしたのが横目に見えた。この男の前では、腐りかけたベテランでさえ選手の顔に戻る。それだけの重みが郷田にはあった。
その目は、笑っていなかった。
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