第9話 得点しない選手
郷田 学は練習場にゆっくりと入ってきた。一歩ごとに床が軋むような重い足取り。長年現場に立ってきた男の体の厚みがあった。
「番場。上がっていいぞ。膝、冷やしとけ」
番場が要実を一度だけ見た。それから郷田に小さく頭を下げて出ていく。
その一声で選手が動くあたりに、郷田への信頼の厚さがにじんでいた。
二人きりになった。がらんとしたコートに郷田の低い声だけが残る。
「オーナーさんよ」
郷田は腕を組んだ。
「番場を残すのはいい。あいつはうちの心臓だ。切ったら、ロッカーが死ぬ。……そこはあんたの判断でいい」
一歩、要に近づく。その分だけ圧が増した。
「だが、育成だのなんだの。……それで試合に勝てんのか」
要は答えなかった。ただ郷田の目を見返していた。
「勝てなきゃ意味がねえんだ」
郷田の声は怒っているというより――どこか切迫していた。拳を握りしめている。
「……お前は見てねえだろ。前のオーナーの、最後を」
それきり、郷田は詳しくは語らなかった。語らなかったが――その一言の重さで、要には十分だった。
負けが込んで。スポンサーが去って。選手が一人、また一人とロッカーの荷物をまとめていく。
その現場に郷田はいた。選手を送り出す側に立って。
――勝てなければ、全員が終わる。それを肌で知っている男だ。
(この人は、正しい)
要はそう思った。
郷田の勝利至上は頑固さでも我欲でもない。恐怖と誠実さから来ている。誰よりもこのクラブを守ろうとしている。ただその手段が要とは違うだけだ。
「郷田さん。一人、獲りたい選手がいます」
「ほう」
郷田の眉が上がる。
「点の取れる外国籍か。それなら話は――」
「東 悠真。二十五歳。……得点は一桁の選手です」
沈黙。それから郷田の顔がみるみる赤くなった。
「……ふざけてんのか」
声が低く唸る。
「うちは点が足りねえんだ。勝てねえんだ。なのに点を取れねえ選手を、金を出して獲るだと? どこにそんな余裕がある!」
まっとうな怒りだった。
スコアシートだけ見れば、東は平凡な選手だ。得点もアシストも地味。誰も欲しがらない。だから、安く獲れる。
番場の契約で補強予算はほとんど残っていない。――だが、誰も値付けしない選手なら。そのわずかな端金でも手が届く。
要は鞄から一枚の紙を出した。東が旧チームにいた頃の記録。ただしスコアシートではなかった。
「これ、見てください」
郷田がしぶしぶ目を落とす。
「東がコートにいた時間と、いなかった時間で。……相手の得点を分けたものです」
紙の上で数字がはっきりと二つに割れていた。東がいる時間帯。相手の得点だけが、すとんと落ち込んでいる。
郷田の目がその一点で止まった。
「……偶然だろ」
「かもしれません」
要は否定しなかった。
「だから確かめたい。郷田さん、東を一ヶ月だけ使ってみてくれませんか」
「なぜ俺が、そんな素人の博打に付き合わなきゃならん」
「もし失点が減らなかったら」
要はまっすぐ郷田を見た。
「そのときは、あなたの言う通りにします。点の取れる編成を最優先する。獲得にも二度と口を出さない。……それで、どうですか」
郷田は要を睨みつけた。
この、宝くじが当たっただけの素人が。いったい何を根拠に――そう思いかけて。
郷田はふと、手元の紙にもう一度目を落とした。東がいた時間だけへこんだ、相手の得点。
こんな数字を。誰も見ない、こんな数字をわざわざ拾ってくるやつを。郷田はこの長い現場人生で一度も見たことがなかった。
――勝てなきゃ、終わる。
その一点だけは、この二人まったく同じだった。ただ、そこへ至る道が正反対だった。それだけだ。
郷田は紙を要に突き返した。
「……一ヶ月だ」
低く、絞り出すように言う。
「一ヶ月で失点が減らなけりゃ、二度と選手のことで口を出すな。……いいな」
「はい」
窓の外で鉛色の海がうねっている。
潮見ブルーホエールズの、最初の補強。誰も値付けしなかった男――東悠真をめぐる攻防が、いま静かに始まった。
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