第7話 「切ってくれ」
練習場は古い体育館のさらに奥にあった。選手用の小さなサブコート。ここも照明の半分は切れている。
ボールを撞く乾いた音だけが、がらんとした空間に規則正しく響いていた。
全体練習はとうに終わっていた。だがコートには、まだ二つの人影が残っていた。
一人は若い選手。志水 玲央。二十三歳、線の細いビッグマン。まだ体はできていないが、リバウンドの勘だけはいいと噂に聞いていた。
もう一人が――番場 剛だった。
「肘を締めろ。ボールは額の前だ」
番場の低い声。
「力で押すな。それじゃ四十分もたねえぞ」
志水がこくりとうなずいて、また放つ。外れる。番場がこぼれた球を拾って、また手渡す。
汗だくの志水と違って、番場はほとんど動かない。動けないぶん、言葉と、手渡す球の一つ一つに教えを込めているようだった。
その繰り返しを、もう何十本も続けているらしかった。
要実は入口の暗がりで、その光景をしばらく見ていた。
全体練習の後に居残る若手。それに番場はずっとこうして付き合っている。
――誰にも頼まれていないだろうに。
その事実を、あの年俸一覧は一行も記していなかった。
やがて志水が深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、番場さん。……明日も、お願いします」
その声には世辞ではない、本物の敬意がこもっていた。番場は片手を軽く上げて応えただけだった。
コートに番場が一人残される。汗を拭くその背中は広い。だがその広い背中が、どこか疲れて見えた。
要が歩み寄る。その足音で、番場は振り返らずに気づいた。
「……新しいオーナーさんか」
番場はタオルで顔を拭きながら、ようやくこちらを見た。
近くで見ると、その体はテレビで見るよりずっと大きく――そしてずっと、傷んでいた。両膝にテーピングが幾重にも巻かれている。サポーターの下から覗く肌には、古い手術の痕が白く走っていた。
「わざわざここまで来た。……用件は一つだろ」
番場が口の端で笑った。自嘲の笑みだった。
「切るんだろ、俺を」
要は答えなかった。ただ静かに、番場の前に立っていた。
番場は構わず続けた。まるで言い訳を先回りするみたいに。
「分かってるさ。数字を見りゃ、誰だってそうする。俺の年俸で、若いのが二人は雇える」
タオルを首にかける。
「動けねえ。点も取れねえ。膝はもう限界だ。それで、この給料だ」
言葉がだんだん重く沈んでいく。
「……恥ずかしいんだよ、俺だって。勝てなくなったこのチームに、高い金だけもらってしがみついてる自分がな」
コートに静寂が落ちた。どこか遠くで、ボールを撞く音が一つ聞こえた。
「だから、いい」
番場はまっすぐ要を見た。その目は赤くなかった。ただ乾いて、覚悟だけがあった。
「情けはいらねえ。中途半端に残されるほうが、きつい。……ばっさり切ってくれ。そのほうが、俺も楽だ」
それは覚悟の言葉だった。三十四年のその半分をこのクラブに捧げてきた男の。最後の意地のような言葉。
要はしばらく黙っていた。
それからコートのさっきまで若手が立っていたあたりに目をやった。
「さっきの子」
「……あ?」
「番場さんが教えてた子です。あれ、指示ですか。誰かに頼まれて?」
番場が怪訝な顔をした。
「頼まれちゃいねえよ。……勝手にやってるだけだ」
「なぜ」
「なぜって……」
番場は少し言葉を探した。それからぶっきらぼうに言った。
「……ほっとけねえだろ。あんな下手なままじゃ、あいつが損をする」
一拍おいて、番場は低く付け足した。
「……昔の俺も、あんなだった。誰かが拾ってくれなけりゃ、コートにも立てなかった」
要はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、小さくうなずいた。その一言で十分だった。
「番場さんを切るかどうか、今日は決めに来ていません」
「……はあ?」
「もう一度来ます。その時に、一つだけ話をさせてください」
番場は意味が分からないという顔で、汗を拭くのも忘れて突っ立っていた。
「……変なオーナーだな」
その吐き捨てるような声に。諦めとは違う別の色が――ほんのかすかに、混じっていた。
番場自身は、まだそれに気づいていなかった。
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