第6話 お荷物
屋台の売上はあれから毎試合、少しずつ伸びていた。客の数は変わらないのに、一人が落とす金だけがじわりと増えていく。
だが、それでも――焼け石に水だった。
要実はフロントの狭い事務室で、浜口と一枚の紙を挟んで座っていた。窓の外では鉛色の海がうねっている。暖房の効きの悪い部屋で、浜口の淹れたインスタントコーヒーだけが白い湯気を立てていた。
机の上の紙は選手の年俸一覧だった。
浜口の指が一番上をなぞる。そこに書かれた金額だけ、一人、桁が違った。赤い付箋が一枚。要検討と、浜口の字で書いてある。
「番場 剛、三十四歳」
要はその名を、浜口に読み上げてもらう必要はなかった。
――番場のことなら、知っている。子どもの頃から、ずっと。
まだ、あの体育館が満員だった頃。要は握りしめた五千円札を手に、初めて一人で試合を観に行った。
残り三秒。一点差のビハインド。コートの真ん中でボールを持ったのが番場だった。
ブザーと同時に放たれたシュートが、ネットを揺らした。
その瞬間の、地鳴りのような歓声。隣に座っていた見知らぬ作業服のおじさんと、抱き合って飛び跳ねたこと。
――要は今でも、覚えている。
その番場が、いま。年俸一覧の一番上で、"最大の足かせ"として赤い付箋を貼られている。
「言いにくいことを……言います」
浜口が意を決したように口を開いた。コーヒーカップを両手で包んでいる。
「この契約を整理すれば、来季の資金繰りはずいぶん変わります」
浜口は一枚めくった。
「うちみたいな身の丈だと、番場さん一人の年俸が、チームの人件費の頭を丸ごと押さえてるんです。……逆に言えば。番場を残すかぎり、新しい選手を獲る金は、ほとんど出ません。この一枠に、うちの補強予算が丸ごと縛られてる」
「分かってます」
要は遮った。浜口に最後まで言わせるのは酷だと思った。
「昨季の出場時間も得点も見ました。全盛期の半分もない。……数字だけなら、切るのが正解だ」
正しい。正しすぎて、反論のしようもない。
全盛期を過ぎた高給の選手を整理する。それは経営再建のいろはの「い」だ。要が昔、コンサルとして何度も社長の隣でやらせてきた。
「痛みを伴う、正しい打ち手」。切られる側の顔を、見ないようにして。
あのとき整理した工場の古参の職人。最後に深々と頭を下げ、「世話になりました」と去っていった背中を――要は今でも、ときどき夢に見る。
だが。要は年俸一覧をじっと見つめたまま動かなかった。
窓の外で海鳥が一声鳴いた。
「浜口さん。番場さん、掲示板ではどう言われてます」
浜口が少し意外そうな顔をした。
「……アンチも多いですよ。年俸泥棒、とか。いつまで居座るんだ、とか」
「擁護は」
浜口は言葉に詰まった。カップの湯気をしばらく見ていた。それから、ぽつりと言った。
「……番場だけは、別なんです。どんなに叩かれても。『番場さんだけは責めるな』って書き込みが、必ず湧く。……不思議なくらい、必ず」
浜口は少し首をかしげた。
「勝てもしないのに、なんで、あの人だけは庇われるんですかね。……正直、私には、分からないんですが」
要は答えなかった。だが、要には分かる気がした。
この八ヶ月、オーナーになる手続きを待つあいだ。要は番場の映像を、何十試合ぶんも見返していた。
全盛期の得点シーンだけじゃない。負け試合の終盤のもう勝てないと決まった時間帯。そういう場面でも、番場だけは最後まで走っていた。ベンチに声をかけ、若手の背中を叩いていた。
――勝敗が決まったあとの、あの数分に、人は出る。
庇う客はきっとそれを見ている。
要は何も言わなかった。ただ手帳を閉じて立ち上がった。椅子が床をこすった。
「切る、と……伝えるんですか」
浜口が慌てて聞く。
要は少し間を置いた。窓の外の鉛色の海を一度だけ見た。
「――会ってきます」
それだけ言ってコートを羽織り、事務室を出た。
残された浜口は、冷めていくコーヒーを前にしばらく動けなかった。
あのオーナーが何を考えているのか。切るのか、残すのか。その横顔からは、まるで読めなかった。
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