第75話 口を出すな
翌朝、郷田学が事務室に来た。
ノックはしなかった。
「オーナーさんよ」
要実は顔を上げた。
「昨日の、一ノ瀬な」
郷田は机の前に立った。腕を組んでいる。
「あんた、どう見た」
要は正直に答えた。
「……乱れました。一ノ瀬がボールを持つと、他が止まる。一人で、やろうとしてました」
「そうだ」
郷田は言った。
「あいつは、まだ、味方と繋がってねえ。練習の数字が、いくら出ててもだ。試合ってのは、一人で跳ぶことじゃねえ」
要は何も言えなかった。
「オーナーさんよ」
郷田は続けた。
「あんた、去年、俺に言ったな。決めるのは、現場だと」
「……言いました」
「なら、なんで口を出した」
郷田の声は荒れていなかった。だが、その静けさが、余計に重かった。
「一ノ瀬を使え、と、あんたは言った。数字を持ってきて、勝てる試合を増やしたい、と。……経営の話だ、と」
郷田は要を見た。
「あの子はな、まだ、繋がる練習の途中だったんだ。番場が、少しずつ一人でやる癖を抜いてる最中だった。あと、ひと月、いや、ふた月はかかる。……それを、あんたが、引っこ抜いた」
郷田の声に初めて熱が混じった。
「勝負どころに放り込まれて、あいつはまた、一人でやろうとした。抜けかけてた癖が、逆戻りだ。……あんたの数字は、あの子を二歩、後ろに下げた」
要はうつむいた。
「名簿は、寄こしていい。誰を、いるようにするか。それは、あんたの仕事だ。……だが」
一拍、置いた。
「いつ、誰を、コートに出すか。それは、俺の領分だ」
要はうつむいた。
一年前、この部屋で、逆のことが起きていた。あのとき、名簿は東京から降ってきた。財前という役員が、点の取れる外国籍を押しつけた。郷田は選べなかった。使う駒を他人に決められ、この面子で勝て、とだけ言われた。手段を、全部取り上げられていた。
要はその郷田に選ぶ権利を返そうとした。決めるのは、現場だ、と。それが、要が郷田にした、いちばん大きな仕事だった。あの人の口から「勝てなきゃ意味がねえ」以外の言葉を取り戻すための。
その要が今、現場の領分に手を突っ込んでいた。一年かけて返した権利を、自分でまた奪いかけていた。あの財前と、同じ側に立ちかけていた。数字を持って、現場の頭ごしに、この選手を使えと言う。財前が押しつけたベイカーと、要が押しつけた一ノ瀬。やり方の見た目はそっくりだった。
「すみません」
要は言った。
「俺が、間違えました」
郷田は少し意外そうな顔をした。言い訳を、するとでも思っていたのかもしれない。
「数字で、見えた気になってました。……跳べる、走れる。だから、いける、と。……でも、それは、一ノ瀬が一人でやる数字でした。味方と繋がる数字は、練習場には、無かった」
要は続けた。
「僕は、いつも見えないものは数えられない、と言ってきました。リー・ジュノのときも、自分には見えないから、あなたに頼んだ。……なのに、今回は、見えないものを見えたことにした。いちばん、やってはいけないことでした」
郷田はしばらく黙っていた。
「……あんたは、選手を集めるのは、うまい」
郷田は言った。
「東も、リー・ジュノも、一ノ瀬も。誰も拾わねえのを、拾ってきた。それは、あんたにしか、できねえ仕事だ」
郷田は腕を組んだ。
「だが、その先は、俺たちに渡せ。育てて、いつ出すかを決めるのは、現場だ。……それを、ごっちゃにするな」
「……はい」
「分かってりゃ、いい」
郷田はドアのところで足を止めた。
しばらく、背中を向けたままだった。
「……昨日な」
郷田は言った。
「俺は、あいつを下げられた。二本、続けて潰れた時点でな」
要は顔を上げた。
「下げなかったのは、あんたに見せるためだ。数字で選手を出すってのが、どういうことか。残りの五分、目の前で、広げてやろうと思った」
郷田の声は低かった。
「あんたに教えるために、十八のガキを、拍手の起きねえコートに、置きっぱなしにした。……凹ませただけだ。あれで、あいつが上手くなるわけがねえ」
郷田は、そこで初めて、要のほうを向いた。
「あんたも、俺もだ。二人して、あの子を、道具に使った」
要は何も言えなかった。
「一ノ瀬は、俺が預かる」
「……はい」
「二度と、起用に口を出すな。……あいつを、あんたの数字で、潰させねえ」
郷田は出ていった。
ドアは乱暴に閉まらなかった。その閉まり方に、要は少しだけ救われた。怒鳴られたわけではない。見放されたわけでもない。ただ、境目を引き直された。あんたの仕事は、ここまでだ、と。
要は、机の上の練習の記録を見た。垂直跳び。往復走。チームで、一番の数字。
その数字は、嘘ではなかった。跳べるのも、走れるのも、本当だった。
その数字だけを見て、要は一人の十八歳を、拍手の無いコートに立たせた。数字は、この子が「一人で」跳べることを、示していた。「五人と」跳べるかどうかは、どこにも、書いていなかった。要が数え忘れたのは、その一点だった。数えられるものだけを見て、数えられないものを、無いことにした。それが、失敗の正体だった。
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