第74話 早すぎた
一ノ瀬樹の初出場は、その週のホームゲームだった。
三点ビハインドの、第四クォーター。残り、五分。郷田が一ノ瀬の名を呼んだ。
「三十二番」
一ノ瀬が立ち上がった。その手が震えていた。夏に合流してから、半年。かけっこで子どもを走らせ続けたコートに、初めて、選手として立つ。ベンチを出るとき、一ノ瀬は一度だけ、二階を見上げた。要がそこにいると知っているようだった。
要実は最前列にいた。心臓が速くなっていた。自分が押した起用だった。この子を、ここへ立たせたのは、自分の数字だった。
最初のプレーは良かった。
相手の速攻を、一ノ瀬が一人で追いついて、止めた。誰よりも速く戻り、誰よりも高く跳んだ。ボールが手のひらにはたき落とされる。ブロック。客席がわいた。
「おお!」
要の後ろで声がした。子どもが指をさしている。あのかけっこで一ノ瀬に走らされた子の一人かもしれなかった。
(……いける)
要はそう思った。数字が正しかった。垂直跳びの数字が、そのままコートに出ている。
だが、そこからだった。
止めたことで、一ノ瀬の目の色が変わった。
次のオフェンス。一ノ瀬はボールを呼んだ。もらった。そして、一人で、仕掛けた。
三人に囲まれた。それでも、放した。無理な体勢だった。外れた。
黒木隼人が何か言った。次は、合わせろ、という意味だったのだろう。
だが一ノ瀬は聞いていなかった。次も自分で仕掛けた。また、囲まれた。今度はボールをはたかれた。相手の速攻。失点。
コートのリズムが崩れていった。
一ノ瀬がボールを持つと、他の四人が、止まる。一ノ瀬が一人でやろうとするからだ。東が走ってもパスは来ない。黒木が空けても見ていない。ボールが、一ノ瀬のところで、止まる。そのたびに、潮見の五人がばらばらになった。
高校で、四十点取っていた男の癖だった。周りが下手だから、自分がやるしかない。三年間、そうやって生き延びてきた体だった。誰も、教えてくれなかった。だから、自分で、全部やった。それがこの子の生き方だった。
その癖が、そっくりそのまま、出ていた。育成の練習では出なかった癖だ。練習では一ノ瀬は素直だった。放せと言われれば、放した。だが、点差の詰まった試合の空気が、あの高校の体育館を呼び戻していた。四十分走って、四十点取らなければ負ける、あの三年間を。頭で覚えたことは、こういうとき、いちばん先に飛ぶ。
点差が開いた。三点が、七点になり、十点になった。要が積み上げてきた"競る試合"が、久しぶりに崩れていた。客席の子どもが、飽きて通路を走り始めていた。終わる前に、席を立つ客が出始めていた。負け試合の去年までの空気が、少しだけ戻っていた。
郷田は一ノ瀬を下げなかった。
腕を組んだまま、コートを見ていた。その横顔は動かなかった。いつもの郷田なら、こういうとき、すぐに手を打つ。選手を替え、流れを切る。この試合の四十分のどこで誰を出すかを、一秒単位で計算する男だった。
その郷田が動かない。
要はその郷田を見て、初めて嫌な予感がした。
(……これは、下げないんじゃない)
見せているのだ。要に。数字で選手を出すというのが、どういうことか。練習の数字と、試合のコートが、どれだけ違うか。郷田は一ノ瀬を下げずに、それを要の目の前に広げていた。言葉で説教する代わりに、残り五分の失点で、教えていた。
試合は十二点差で負けた。
一ノ瀬は、最後まで、コートにいた。終盤は、もう味方の誰も、一ノ瀬にボールを預けなかった。放しても、また一人で抱え込むと、分かっていたからだ。一ノ瀬は、コートの上で、一人だった。五人の中の、一人ぼっちだった。
ブザーが鳴った。
一ノ瀬はしばらく動かなかった。それから、うつむいてベンチへ歩いた。その背中を要は見ていた。高校の準々決勝で、四十点取って負けたあと、コートの真ん中に立ち尽くしていた、あの背中と同じだった。
客席から、拍手は、起きなかった。
ここ最近の潮見では、負けても、拍手が起きるようになっていた。競っていたからだ。最後まで、諦めなかったからだ。だが今日は、違った。競って、いなかった。ばらばらの五人が、大差で負けた。
要は、その拍手の無い体育館を、最前列で聞いていた。自分が押した起用が、この静けさを、作っていた。
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