第73話 もう、いけるんじゃないか
志水玲央が抜けて、前線が薄くなった。
宮里澪が止めたのは正しかった。要実はそれを疑っていない。だが、正しいことと、勝てることは、別だった。志水のいない潮見は、ゴール下でひとつ駒が足りなくなっていた。
後半戦が始まっていた。潮見は思いのほか勝てていた。守り勝ちが定着し、観客も伸びている。このまま行けば、シーズン十八勝が見えてくる。要が去年、紙に書いた数字だった。
十八勝にはあと少し足りない。志水の穴がそのまま勝率の穴になりかけていた。前線でリバウンドを拾える駒が、一枚減った。その一枚ぶん、競った試合を落とし始めていた。
だからこそ要は、もう一枚欲しくなっていた。集客が伸びている今、勝ちを上乗せできれば、追い風はもっと強くなる。負けが込めば、せっかく増えた客足も、また鈍る。要の頭の中で、勝ちと客と数字が、ひとつに繋がっていた。その繋がりが要の目を少しだけ曇らせていた。
要は練習の記録をめくっていた。一ノ瀬樹の欄だった。
夏に合流してから、一ノ瀬の練習の数字は、伸び続けていた。垂直跳び。二十メートルの往復走。どれもチームで一番になっていた。番場の居残りに付き合い、子どものかけっこを仕切り、そのあいだもずっと、体を作っていた。
(……もう、いけるんじゃないか)
要はそう思った。
数字はそう言っていた。志水の穴を、この身体能力なら、埋められる。育成契約の若手だが、飼い殺しにする理由は、もう無い。
一年目も、二年目も、試合には出さない。そう言ったのは要だった。あの子の目の前で、自分の口で、言った。
その約束を、いま自分で外そうとしている。要はそれに気づいていた。気づいた上で、状況が変わった、と思った。志水が抜けた。数字も出ている。だから、いい。
要は東のことを思い出していた。あのときも数字が答えを出した。オンオフの表が、東の価値をはっきりと示した。誰も見ていなかった数字を、要が拾って、当てた。
一ノ瀬の垂直跳びも同じだ。誰よりも高く跳ぶ。その数字が嘘のはずがない。要はそう思っていた。
だが、東のときと、一つだけ違うことがあった。東の数字は試合の数字だった。四十分のコートで、実際に起きたことを、数えたものだった。
一ノ瀬の数字は練習の数字だった。誰もまだ、一ノ瀬が試合で何をするかを、見ていなかった。
要はその違いに気づいていなかった。跳べる、走れる。その数字を、東のオンオフと、同じものだと思っていた。
要は郷田学のコーチ室に行った。
「一ノ瀬を、そろそろ、使えませんか」
郷田はビデオから顔を上げた。
「……あの子をか」
「志水の穴です。前線が、一枚足りない。一ノ瀬の身体能力なら、埋まります」
要は練習の記録を机に置いた。垂直跳び。往復走。数字が並んでいた。
郷田はそれをちらりと見た。そして、またビデオに目を戻した。
「まだ、早い」
「なぜですか」
要は聞いた。
「数字は、出てます。練習では、誰より跳んで、誰より走ってる」
「練習は、練習だ」
郷田は言った。
「あいつは、まだ、味方と繋がってねえ。一人で跳んで、一人で走ってるだけだ。……試合ってのは、そういうもんじゃねえ」
「試して、みないと、分からないのでは」
郷田の手が止まった。
そして、要を見た。その目に、久しぶりに圧が戻っていた。
「オーナーさんよ。……いつ、誰を出すかは、俺の領分だ」
要は、そこで、引くべきだった。
だが、引かなかった。
「勝てる試合を、増やしたいんです。それは、経営の話でもある」
郷田はしばらく要を見ていた。
それから、低く言った。
「……好きにしろ」
その夜、要は、二階の通路から練習場を見ていた。
一ノ瀬は居残っていた。誰もいないゴールに向かって、跳んでいる。その跳躍はやはり他の誰とも違った。高い。速い。
要にはそれが答えに見えた。
数字がそう言っている。身体がそう言っている。あとはコートで証明されるだけだ。
要はそう思っていた。
一ノ瀬が、試合に出たくてたまらないことも、知っていた。あの子は、かけっこで子どもを走らせるたびに、自分がまだ一度もこのコートに立っていないことを噛みしめていた。子どもに「走れるよ」と言いながら、自分は公式戦の四十分を、一秒も走っていない。
(……出してやりたい)
その気持ちが、要の中で数字と混ざり始めていた。数字だから、正しい。出してやりたいから、出す。その二つが、いつのまにか、同じ顔をしていた。
要は、それを切り分けられていなかった。苅田のときは、切り分けた。切りたいのか、切ってはいけないのか。分からない、と正直に言えた。
今回は、分かった気に、なっていた。それが、危うさだった。
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