第72話 もたせます
その試合の二日後だった。
志水玲央は練習場にいちばん早く来ていた。
だが、コートには、上がらなかった。宮里澪がまだ走ることを許していなかった。志水は、コートの端で、宮里の指示どおり脛を休める地味なメニューをやっていた。
跳ばない。踏み込まない。
去年の借りを返すはずだった試合をベンチで見た男には、それは罰のように退屈だった。
番場剛がその隣に腰を下ろした。
「玲央」
「……番場さん」
「あの試合、見てたよ。ベンチのお前を」
志水はうつむいた。
「俺が、居残りさせたせいだ」
番場はぽつりと言った。
志水が顔を上げた。
「俺が、お前に練習しろと言った。……その練習で、お前の脛が削れた。……皮肉なもんだな」
「番場さんの、せいじゃないです」
志水は慌てて言った。
「俺が、勝手に、やったんです。強くなりたくて」
「知ってる」
番場は言った。
「だから、余計に、言えねえんだ。頑張るな、とはな」
番場は自分の膝を見た。テーピングだらけの両膝を。
「俺はな、玲央。……止めてくれる人が、いなかった」
志水は番場を見た。
「若えころ、痛えのを、隠して跳んでた。休んだら、次の試合、出られねえと思ってた。……で、こうなった」
番場は膝を軽く叩いた。
「あと何年、跳べるか、分からねえ。……お前には、俺みたいになってほしくねえ」
志水は何も言えなかった。
そこへ、宮里が、来た。
道具を持って、番場の前にしゃがんだ。
「番場さん。膝、見せてください」
「……いつものか」
「はい。いつものです」
宮里は番場の膝を丁寧に触っていった。腫れの引き具合。可動域。番場が顔をしかめる、その一瞬を、見逃さない。
志水はその手つきを見ていた。
「番場さん」
宮里は、膝を触りながら、言った。
「あなたが、やめる日まで」
「あ?」
「この膝、私が、もたせます」
宮里は顔を上げなかった。ただ、膝を触り続けていた。
「跳べなくなる日は、いつか来ます。それは、止められない。……でも、その日が一日でも、後になるように。私が、もたせます。番場さんが、自分で終わりを決められるように」
番場はしばらく何も言わなかった。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……変な女だな」
「よく言われます」
宮里は初めて少し笑った。
志水はその二人を見ていた。
止めてくれる人がいなかった男と。止めてくれる人がいる自分と。
その違いがようやく志水の中で形になった。
「宮里さん」
志水は言った。
「俺、折れなくて、良かったんですかね」
宮里は、番場の膝を触ったまま、答えた。
「何ヶ月か、先に、分かりますよ」
宮里は言った。
「どこかのクラブの若い選手が、同じ症状で、長く離脱する日が、たぶん来ます。……そのとき、あなたが、コートに立ってたら。それが、答えです」
志水にはその意味がまだ半分しか分からなかった。だが、番場の膝を触る宮里の手を見ていると、なぜか、その言葉を信じてもいいような気がした。この人は、目に見えないものを毎日、手で確かめている。志水の脛も、番場の膝も。誰も数えないものを、この人だけが数えていた。そして、その数えたものを勝ち負けの前に、一度も譲らなかった。志水は初めて、自分が守られていることを少しだけ実感した。
要実は二階の通路からその三人を見ていた。
番場の膝を触る宮里。それを見ている志水。
誰も、勝ってはいない。首位との試合は負けた。外野は要に厳しい。数字には、何も、書けていない。
(……それでいい)
要はそう思った。
折れなかったことは、いつか折れた誰かが出るまで、証明されない。それまで、この判断はただの負けにしか見えない。外野は、しばらく要と宮里に厳しいままだろう。志水を出せ、勝てる試合を落とすな、と。
要は、その証明されない時間を抱えて歩くことに、もう慣れていた。東のときも、苅田のときも、そうだった。正しさは、いつもあとから来る。来ないこともある。それでも、宮里の手が触れているものを、要は信じることにした。
窓の外で、冬の海が鈍く光っていた。折り返しは過ぎた。ここから、後半戦が始まる。まだ見ぬどこかのクラブで、一人の若い選手の脛に、志水と同じ罅が静かに伸びているとも知らずに。証明は、いつも、待った者にだけ、遅れてやってくる。
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