第70話 宮里が、駄目だと言った
郷田学は、宮里澪の報告を、腕を組んで聞いていた。
「首位との試合、志水を外せ、と」
「はい」
「うちの、いちばん調子のいい選手をな」
「はい」
郷田はしばらく宮里の顔を見ていた。
宮里は目を逸らさなかった。この報告を、覆されるかもしれないと、たぶん覚悟していた。首位との試合は負けられない試合だ。監督が「使う」と言えば、それまでだった。
「……分かった」
郷田は言った。
「外す」
宮里が少しまばたきをした。
「いいん、ですか」
「よかねえよ」
郷田は言った。
「向こうのセンターは、うちのゴール下を、こじ開けてくる。志水がいなけりゃ、そこが、まるごと空く。……勝ち目は、半分になる」
郷田は、腕を組んだまま、続けた。
「だが、それは、勝ち方の話だ。誰を出すか、どう守るか。……そっちは、俺の領分だ。俺が、なんとかする」
郷田は宮里を見た。
「出せる体かどうか。そっちは、お前の領分だ。俺は、そこに口を出さねえ」
宮里は、頭を下げて、出ていこうとした。
その背中に、郷田がぽつりと言った。
「……五年前にな」
宮里が足を止めた。
「若いのが、一人いた。膝が、腫れてた。本人は、やれる、と言った。大事な試合でな。……俺は、使った」
郷田の声は低かった。
「割れた。……そいつは、次の年、いなかった」
郷田は、自分の手のひらを、机の上で開いた。節くれだった、大きな手だった。
「俺はな、選手を、勝たせたいんじゃねえ。……路頭に、迷わせたくねえんだ。コートを失った選手が、そのあと、どうなるか。……俺は、見てきた」
郷田は手を閉じた。
「勝てなきゃ、クラブが終わる。選手が、行き場を失う。……だから俺は、勝ちにこだわってきた。でもな」
郷田は宮里を見た。
「勝つために、選手を割ったら、本末転倒だ。……お前が来て、俺はそれをやらなくて済む」
宮里はしばらく何も言えなかった。
この人は勝利至上主義の頑固な監督だと聞いていた。数字を嫌う、たたき上げだと。
だが目の前の男は、宮里がこの三年どのクラブでも味方につけられなかった、その相手だった。「今日は出せない」を、覆さない監督。
宮里は、前のクラブのことを、思い出していた。あそこでも、宮里は何度も「出せない」と言った。そのたびに覆された。監督が使うと言い、フロントが客が入ると言い、選手本人が出たいと言う。三対一でいつも宮里が折れた。折れて、選手が壊れる。それでも誰も宮里のせいだとは言わなかった。宮里が止めようとしたことすら、忘れられていた。壊れたのは運が悪かった、で片づけられた。止められたかもしれない、とは、誰も考えなかった。
だからこの三年、宮里は、味方を探していた。金でも地位でもない。ただ一人、「お前が駄目だと言うなら駄目だ」と言ってくれる人を。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらねえ」
郷田は言った。
「お前の仕事は、俺の失敗を繰り返さねえことだ。……礼を言う筋合いは、こっちにある」
宮里はコーチ室を出てから、少しの間、廊下で立ち止まっていた。三年、探していた言葉を、たった今聞いた気がした。お前が駄目だと言うなら駄目だ。それだけの一言を、宮里はずっと、どこのクラブでも、もらえずにいた。
その日の練習後、郷田は志水を呼んだ。
「あの試合、お前は、ベンチだ」
志水の顔が歪んだ。
「郷田さん、俺──」
「宮里が、駄目だと言った」
郷田はそれだけ言った。
「宮里が駄目だと言ったんなら、駄目だ。……俺は、それに従う」
志水は、何か言いかけて、やめた。郷田の声には、志水の知らない、重いものがあった。
「玲央」
郷田はめずらしく下の名で呼んだ。
「折れてからじゃ、遅えんだ。……あいつは、来年もいる。お前の脚は、一本きりだ」
志水はうつむいた。
その言葉が、宮里の言ったことと、同じだと気づくのに、少しかかった。痛くないうちに止める。折れてからでは遅い。あの人も、この人も、同じことを言っている。数字の女と、たたき上げの監督が、同じ結論に別の道からたどり着いていた。
「郷田さん」
志水は顔を上げた。
「五年前の人って、誰ですか」
郷田の手が止まった。
「……知らなくていい」
郷田はそれだけ言って、コートへ歩いていった。その背中は、いつもより少しだけ、丸く見えた。
志水は、その背中を見送った。この人が勝ちにこだわる理由を、志水は今日、初めて知った気がした。勝ちたいのではない。誰かを、二度と、あの五年前のように、失いたくない。だから、勝つための駒を、割らせない。宮里と、同じ場所に立っていた。
だが、コートの外は、まだそれを知らない。志水を外した潮見を、外野はこれから、責め始める。
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