第69話 痛くないのに
「なんで、ですか」
志水玲央の声は震えていた。
宮里澪は志水の左足の脛の内側を指で押していた。
「ここ、痛くないですか」
「痛くないです」
「じゃあ、ここ」
「痛くないです」
宮里は押すのをやめた。
「それが、まずいんです」
志水は意味が分からないという顔をした。
「俺、どこも痛くないんですよ」
志水は言った。
「走れます。跳べます。今、いちばん調子いいんです。……なんで、あの試合、外すんですか」
宮里はノートパソコンを開いた。
志水の着地の映像を並べて見せた。左と右。ひと月前と、今。
「分かりますか」
「……分かんないです」
「左が、逃げてます。着いた瞬間に、内側へ」
宮里は静かに言った。
「あなたの脛は、今、限界の一歩手前です。ここであの試合を四十分やったら、たぶん、折れます。折れたら、三ヶ月、コートに立てません」
「……たぶん、でしょ」
志水は言った。
宮里は志水を見た。
「たぶんです」
宮里は否定しなかった。
「折れないかもしれない。あの試合、四十分やって、活躍して、何ともないかもしれない。……でも、折れたら、取り返せないんです。私は、その取り返せないほうに賭けられない」
志水はうつむいた。
「俺、去年、あいつに二十点取られたんです」
志水の声が低くなった。
「あのセンターに。何もできなくて。……ずっと、悔しかった。この一年、そのために居残って練習してきたんです」
宮里は黙って聞いていた。
「番場さんが、教えてくれたんですよ。居残りで、フォームから、全部。……やっと、いけると思ったんです。今なら、あいつと、やれるって」
志水は顔を上げた。
「その試合を、外すんですか。痛くもないのに」
宮里は、少しの間、答えなかった。
「志水さん。あなたが居残りで走った距離、私、全部、記録してます」
宮里は言った。
「番場さんに教わって、あなたは、変わった。……いちばん、練習するようになった。それは、すごいことです」
「じゃあ──」
「その練習が、あなたの脛を、削ってます」
志水の顔が止まった。
「頑張ったから、こうなったんです。サボったからじゃない。……だから、余計に、止めにくい。頑張ってる人を、止めるんですから」
宮里はパソコンを閉じた。
「でも、止めます。頑張った脚を、折らせないのが、私の仕事なので」
志水はしばらく何も言わなかった。
拳を握っていた。この一年がその拳の中にあった。番場に一から教わり直したフォーム。誰もいない体育館で、独りで打ち続けた、何千本ものシュート。全部、あのセンターに、もう一度ぶつかるためだった。去年、何もできずに二十点を許した、あの相手に。
その試合を、痛くもない脛のせいで、見送る。志水には、それがどうしても、飲み込めなかった。跳べる。走れる。体はいつでも行けると言っている。なのに、数字だけが、行くなと言う。自分の体より、他人のノートの線を、信じろというのか。
「一年、待ったんです」
志水は言った。
「この試合のために、一年、やってきたんです。……それを、数字で、外すんですか」
「数字で、外します」
宮里は静かに答えた。
「あなたの一年を、私は、知りません。番場さんとの練習も、見てません。……でも、あなたの脛の数字は、毎日、見てました。私が信じられるのは、そっちだけです」
志水はそれから絞り出すように言った。
「……宮里さんが、間違ってたら、どうするんですか」
「私が間違ってたら」
宮里は言った。
「あなたは、あの試合を無駄に一つ、休むだけです」
宮里は志水の目を見た。
「私が正しくて、あなたが出たら。……三ヶ月、コートを失う。どっちの間違いが、重いか。それだけの話です」
志水は答えられなかった。
宮里は、道具をまとめて、立ち上がった。ドアのところで一度だけ振り返った。
「痛くないうちに止めるから、誰にも、感謝されないんです」
宮里は言った。
「あなたにも、たぶん。……それでいいんです。折れないのが、いちばんなので」
志水は、一人、残された。
自分の左足を見た。何ともない。痛くない。跳べる。
なのに、あの人は、折れると言う。
志水は、脛の内側を自分で押してみた。強く、押した。
痛くなかった。
それが、いちばん、怖かった。痛ければ、休む理由になる。痛くないのに休むのは、ただ、逃げているようで。だが宮里は、その「痛くない」こそが、危ないと言った。志水にはまだ、自分の体よりあの人のノートを信じる勇気が、無かった。
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