第68話 痛みの前
宮里澪はその数字に三日前から気づいていた。
志水玲央の着地だった。
宮里は毎日、選手の練習をコート脇のカメラで撮っている。派手な映像ではない。ただ、足が床に着く瞬間だけを横から撮り続けている。人の目には同じに見える着地を、宮里は一コマずつ、左右で比べていた。
志水の左足がわずかに逃げていた。
着いた瞬間の、膝の内側への沈み。それが右より、コンマ数度、深い。三日前から、その差が、開き続けていた。
宮里は走行距離の記録も並べた。志水はこのひと月、誰よりも走っていた。全体練習のあと、居残って一人でシュートを打つ。番場が昔そうしていたように。その積み上げが、数字になって、左の脛に溜まっていた。
(……疲労骨折の、前だ)
まだ、折れていない。ひびも入っていない。レントゲンを撮っても、たぶん、何も写らない。
だから、厄介だった。
宮里は要実の事務室に行った。
「志水を、次の試合、外してください」
要は顔を上げた。
「けが、ですか」
「まだ、してません」
宮里は言った。
「これから、します。使い続けたら」
要は宮里の出したノートを見た。着地の左右差。走行距離の積み上げ。宮里が線で結んだ、二つの曲線。要には、その線の意味が、半分しか読めなかった。
「本人は」
「痛がってません」
宮里は言った。
「痛くなったら、もう遅いんです。疲労骨折は、折れてから痛む。予防っていうのは、痛みの前で、止めることです」
「……僕にも、確かめられますか」
要は聞いた。
「僕は、数字しか読めません」
「触れば、分かります」
宮里は言った。
「骨膜が厚くなって、押すと痛がる。皮膚の色も、血の巡りが落ちて、茶色く変わります。……ただ、それが出たときは、もう始まってます」
「出る前に、分かる方法は」
「機械なら、あります」
宮里は言った。
「骨の血管の入り口を撮って、その大きさの変わり方を、数字で追う。……うちには、ありません。買えたとしても、たぶん、維持できません」
宮里は自分のノートを指で叩いた。
「だから、カメラなんです。うちにある道具で、いちばん早く気づけるのが、これでした」
要はしばらくその線を見ていた。
「次の相手は」
要は聞いた。
「首位のクラブです」
宮里は答えた。
「志水が、去年、二十点取られた相手。……本人が、いちばん、出たがってる試合です」
要はそのことを知っていた。その試合は、この折り返しで、いちばん客の入る試合になる。志水が去年の借りを返せば、町は沸く。屋台も潤う。勝てば、連勝も見えてくる。
要が積み上げてきた集客の、ちょうど追い風になる試合だった。
その試合で、いちばん調子のいい選手を外す。
「あそこは、トレーナーを、置いてません」
宮里は言った。
「正確には、外注です。試合の日だけ来て、テーピングを巻いて、帰る。予防は、しません」
「なぜ」
「壊れたら、買い直すからです」
宮里は線の引かれた紙をまだ見ていた。
「あそこの編成は、五年で三度、入れ替わってます。膝をやった選手が、戻ってきた例は、ありません。戻すより、獲るほうが、安いんです」
要はその言い方を聞いていた。
――安い。要が去年から、何度も使ってきた言葉だった。同じ一語で、まるきり逆のことが、できる。
要は宮里を雇ったときのことを思い出していた。
この人を見つけたのは数字だった。前にいた中位クラブで、宮里がいた三年だけ主力の離脱が、リーグ平均の三分の一だった。抜けた翌年、それは元に戻った。東を見つけたときと、同じやり方だった。人がいる時間と、いない時間で、起きることが変わる。派手な選手ではない。派手な仕事でもない。ただ、宮里がいると、選手が壊れない。それだけの人だった。それだけの人が、どこのクラブでもいちばん、値をつけられずにいた。壊れなかった選手は感謝しない。壊れる前に止められたことに、本人すら、気づかないからだ。
だがその手柄は、どこにも、残らなかった。離脱が少ないことに賞は出ない。宮里は、派手なリハビリ実績を持つ男に、チーフの椅子を奪われていた。何も起きないことは、誰の目にも、留まらない。
(……この人を、また、同じ目に遭わせるところだった)
要はそう思った。集客のいい試合で勝ちたい。その気持ちがあやうく宮里の判断を覆させるところだった。
「宮里さん」
要は言った。
「あなたを雇ったとき、僕は、一つ約束しました」
「はい」
「『今日は出せない』が、通ること。……僕も郷田さんも、覆さない」
要はノートを閉じた。
「外します。あの試合、志水は使いません」
宮里は少しだけ意外そうな顔をした。もっと、抵抗されると思っていたのかもしれない。
「……いいんですか。集客に、いい試合なのに」
「よくないです」
要は言った。
「痛いですよ、正直。……でも、志水が割れたら、来年、彼はいません。集客のいい試合は、来年もあります。志水の脛は、一本きりだ」
痛い、というのは、比喩だけではなかった。首位との試合は、今季いちばん客が入る試合だ。志水を外して、もし競り負ければ、そのぶん熱も、次の集客も、鈍る。損益分岐に近づきかけた実績が、また一歩、遠のく。差は要の私財が埋める。
要は、それを分かっていて、外すと言った。折れない脛のために、自分の財布をまた少し薄くする。
要はそこで少しだけ間を置いた。
「ただ、一つだけ、お願いがあります」
「なんですか」
「止めた分を、数字で見せてください」
要は言った。
「情で外したんじゃない。そう、僕が自分に言えるように。……あなたが正しかったことを、いつか、数字で」
宮里はうなずいた。
「見せます。……たぶん、何ヶ月も、先になりますけど」
宮里は事務室を出た。廊下の窓の外で、練習を終えた志水が、まだ一人コートに残っていた。誰もいないゴールに向かって、左足で踏み切って、跳んでいる。
一本、また一本。その踏み切りごとに、脛の奥で、目に見えない罅が近づいていた。
本人だけが、それを知らなかった。頑張っているという手応えだけが、志水をその一本へ、また一本へと向かわせていた。
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