第67話 まだ、届かない
客がみな帰ったあと、要実は一人で、二階の通路を歩いた。
暗くなった客席を端から端まで見る。数時間前まで、ここに二千八百人がいた。その前の週も、そのまた前の週も、少しずつ増えていた。空席はまだある。だが去年の全部が空だった夜とは、もう違っていた。
要はいつもそうしていた。試合の勝ち負けではなく、埋まった席と空いた席を目で数える。それが要の見ている試合だった。
シーズンの折り返しに、観客の平均は二千八百になっていた。
翌朝、浜口が事務室のホワイトボードに、その数字を書いた。二千百から始まった季節だった。佐伯の記事。町の物語に紐づいた手ぬぐい。守り勝ちのバスケ。子どものコート。それが少しずつ、席を埋めていった。
「七百、増えました」
浜口は言った。
「一年で七百は、悪くないどころか、たぶんリーグでも上のほうです」
要はその数字を見て、それからボードの隅に書かれた、もう一つの数字を見た。
四千。
新しいアリーナが成り立つための境目だった。まだ千二百、足りない。
「まだ、届きません」
要が言うと浜口が顔を上げた。
「要さん。七百も増えたんです。少しは──」
「喜んでいいと思います。浜口さんは喜んでください。佐伯さんも、鍬形さんも。みんな、よくやった」
「要さんは」
「僕が喜ぶのは、四千になってからです」
要は窓の外を見た。体育館はもう暗かった。あの駐車場の子は今日はいなかった。
「席を埋める手は、まだいくつかあります。子ども。物語。守り勝ち。でも、それだけじゃ四千には届かない」
「では、何が」
要は少し黙った。それから言った。
「箱、です」
「箱?」
「この体育館じゃ、たぶん四千は無理なんです。造りが古い。トイレも駐車場も足りない。子連れが増えたら、いちばん先に、それで詰まる」
要は言った。子どもの日の駐車場は、開場の一時間前で、もう満車に近かった。トイレの前には、ベビーカーの列ができていた。席を埋める工夫は、そのまま箱の古さを、あぶり出していた。
「いつか、箱そのものを変えないと、いけない」
浜口はその言葉の大きさに、少したじろいだ。
「アリーナを造る、ってことですか。うちの、身の丈で」
「いつか、です。今は無理だ。金も実績もない。でも今、席を埋めておかないと、その『いつか』は来ない。埋まった箱を見せられないと、誰も次の箱に金を出さない」
要は言った。
「二千百の箱には、誰も金を貸さない。でも、四千を、毎試合埋めてる箱になら、話くらいは、聞いてくれる」
要はボードの四千を指でなぞった。そこで一度、手を止めた。
「その前に、もう一つ、やらないといけないことがあります」
「なんですか」
「選手を、壊さないことです」
浜口が要を見た。
「席をいくら埋めても、勝てる選手がけがでいなくなったら、全部終わる。去年、東をあやうく壊しかけた」
要は宮里澪の机を見た。メディカルトレーナーの机だった。まだ目立った仕事はしていない。給料だけが出ていく、と陰で言う者もいた。だが要は彼女を雇うとき、一つの約束をしていた。
医療の判断は通す。その約束だった。
宮里は最近、選手の走行距離と着地の癖を、毎日数字で追っていた。要にはその数字の意味が、半分しか読めない。だが宮里の目が、ある選手の欄でよく止まっているのは、気づいていた。
志水、という名前だった。今、いちばん調子のいい、若い選手だ。
「近いうちに、宮里さんがたぶん、誰かを止めます」
要は言った。
「たぶん、いちばん活躍してる選手を。いちばん、出したい試合で」
浜口が息をのんだ。
「それは……お客さんが、増えてるときに、ですか」
「そうです。だから、その止め方は、きっと誰にも感謝されない」
要は、暗いコートを、もう一度見た。数時間前まで、子どもが走っていた床だった。
「席を埋めるのは、目に見える。だから、褒められる。……でも、選手を壊さないことは、目に見えない。何も起きなかったことは、誰も、褒めない」
要は言った。
「それでも、やらないと、いけない」
浜口はしばらく黙っていた。それから、ホワイトボードの二千八百と四千を交互に見た。
「要さん。この仕事、報われるんですかね。席を埋めても、まだ足りない。選手を守っても、感謝されない」
「報われませんよ、たぶん」
要はあっさりと言った。
「でも、去年、この箱は空でした。今は、二千八百人います。子どもが、コートを走ってます。……報われないことを、いくつか積んで、そうなった」
要は、電気を消した。事務室が、暗くなった。
「次は、宮里さんの番です。いちばん、報われない仕事の」
窓の外で、遠くの街灯が一つ、ともっていた。
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