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7億円で、潰れかけのクラブを買いました ~数字しか見えない俺は、誰も数えない選手を集める~  作者: 猫の飼い主
第五章 招待 ―― 客が、帰らない

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第66話 誰も教えなかっただけ

その若い選手は、試合後のコートに、いちばん最後まで残っていた。


背番号はまだ公式戦で一度もコールされていない。夏に育成枠で入った子だ。名前を一ノ瀬樹(いつき)といった。


一ノ瀬は走るのが遅い子に付き合っていた。


さっきの三歳の男の子が、また半分で転んで、泣きそうになっていた。ほかの子はもう走り終えて、親のところで笑っている。その子だけが白い線の真ん中で、立ち止まっていた。


一ノ瀬はその子の隣にしゃがんだ。


「一緒に、走ろうか」


「……できない」


「できるよ。俺も、ちっちゃいころは遅かったんだ。だから、一緒に走る人がいると、走れた」


一ノ瀬はその子の歩幅に合わせた。速く走らない。子どもが一歩出したら、自分も一歩。転びそうになったら手を出す。転んだら、待つ。急かす言葉は一度も出さなかった。


端まで二人でたどり着くのに、ずいぶん時間がかかった。だがたどり着いたとき、その子は笑っていた。


「もう、いっかい!」


「いいよ。何回でも」


一ノ瀬はまた、その子を連れてスタートに戻った。


いつのまにか、ほかの子も、一ノ瀬の周りに集まっていた。速い子は勝手に走っていく。だが、うまく走れない子や恥ずかしがる子は、この背の高い兄ちゃんのそばを離れなかった。一ノ瀬はその一人ひとりに名前を聞いた。名前を呼んで走らせた。呼ばれた子は少しだけ速くなった。


三歳の子の母親が、一ノ瀬に頭を下げた。


「ありがとうございます。選手さんなのに、こんな……小さい子の相手まで」


一ノ瀬は少し困った顔をした。


「いえ。俺、まだ、試合に出てないんで。……これくらいしか、できることが、なくて」


「試合、出られるといいですね」


「はい」


一ノ瀬は、そう言って、また子どものほうへ戻っていった。母親には、その背中が、ずいぶん大きく見えた。だが一ノ瀬自身は、自分が意味のあることをしているとは、思っていなかった。ただ、走れない子を放っておけない。それだけだった。昔の自分がそこにいるようで。


番場剛が二階の通路からそれを見ていた。隣にいた要に番場は言った。


「あいつ、教えるのがうまいな」


「そう、ですか」


「うまいっていうか、待てるんだ。子どもができるまで。急かさない。……あれは、教わったやつにはできねえ。教わらなかったやつだけが、できる」


要は番場を見た。


「一ノ瀬は、高校で部員が七人でした。まともに教えてくれる人が、いなかったんです。だから独りで、体育館に残ってた」


要は続けた。


「誰も、教えてくれなかった子です」


番場はしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。


「じゃあ、あいつは知ってるんだな。教えてもらえないのが、どんなに心細いか。だから待てる」


番場は手すりに腕を置いた。膝をかばう、いつもの姿勢だった。かつて日本代表まで行った男が、今は動かない膝を抱えて、二階から若手を見ている。


「才能ってのは、ああいうのを言うんだ。点を取ることじゃ、ねえ」


番場は、少し間を置いて、続けた。


「俺は、うまいやつに、いっぱい教わった。金も、コーチも、あった。……だから、待てねえんだ。できねえやつを見ると、いらついちまう。あいつは、逆だ」


要は番場の横顔を見た。この人がそう言うのは、めずらしかった。


コートでは三歳の子がまた転んでいた。一ノ瀬はまた、隣で待っていた。母親がその二人を撮っていた。


要はその光景を、名簿の一つの番号と重ねていた。まだ公式戦に出ていない、番号だ。育成枠のこの子を、要はいつか、勝てる時間帯に使いたいと思っていた。だが、それがいつなのかは、まだ決めていない。焦って早く使えば、たぶん、壊す。


「番場さん」


要は言った。


「あの子は、いつ、試合に出したら、いいと思いますか」


番場は、しばらくコートを見てから、言った。


「知らねえよ。それを決めるのが、お前の仕事だろ」


要は小さくうなずいた。


去年の冬、要はこの子を、誰もいない高校の体育館で見つけた。部員は七人。監督は名ばかりだった。それでも一ノ瀬は、居残って、一人でシュートを打っていた。教わっていないから、フォームは癖だらけだった。だが、球が手を離れる瞬間の目だけは、番場のそれと少し似ていた。


この子にはこの子にしかできないことがあった。それがいつコートの上で証明されるのか。要はまだ、それを知らない。


だが今日、試合後の空いたコートに、その片鱗があった。小さな子どもたちの歓声の中に、確かに。



【B.ONE】潮見ブルーホエールズ 応援スレ Part72


623 名無しの潮見住民

土曜、下の子連れて行ってきた

>>622で書いたやつだけど、託児ほんとに預かってくれた

久しぶりに、座って試合見た


624 名無しの潮見住民

>>623 おかえり

で、勝った?


625 名無しの潮見住民

>>624 負けた

でもうちの子、コート走って大満足

また行くって言ってる


626 名無しの潮見住民

質問なんだけど、託児って予約いるの?

何歳から?


627 名無しの潮見住民

>>626 予約なし、先着

早めに行け

あと子ども用の小さいおにぎりは、早い時間に売り切れる


628 名無しの潮見住民

あの小さいおにぎり、大人が食ってもうまいんだよな


629 名無しの潮見住民

>>628 わかる

二個買え

――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

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