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7億円で、潰れかけのクラブを買いました ~数字しか見えない俺は、誰も数えない選手を集める~  作者: 猫の飼い主
第五章 招待 ―― 客が、帰らない

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第65話 客が、帰らない

佐伯涼真はその記事を一晩で書いた。


見出しは地味だった。『試合が終わったコートで、子どもが走った』。写真は一枚きり。あの三歳の子が白い線の上で転んで、それでも笑っている後ろ姿だった。顔は写っていない。佐伯がわざとそう撮った。


記事に、勝ち負けのことはほとんど書いていなかった。潮見が競り負けたことは、最後に一行あるだけだ。


代わりに書いてあったのは、あの母親の言葉だった。


「久しぶりに、座ってビールを飲みました」


その一行で記事は終わっていた。


佐伯は、その原稿を送るとき、少し手が止まった。かつて造船所の最後の一日を書いた記事は、二百PVで終わった。刺さる記事は読まれない。くだらない記事だけが読まれる。そう思って、この町を出かけていた男だった。


だが今度は、書いていて、指が軽かった。


事件は何も起きていない。子どもが転んでまた走った。母親がビールを一杯飲んだ。それだけの話だ。造船所の記事と、同じ種類の地味な一日だった。


「地味な話しか、書けないんですよ、俺は」


佐伯は要にそう言ったことがある。


「それで、いいんです」


要はそのときそう答えた。


「派手な話は、一回、消費されて、終わりです。地味な話は、その人の中に、残る。うちに、残ってほしいんです。一回来て、終わり、じゃなくて」


今その意味が佐伯にも少し分かりかけていた。ビールを一杯飲んだ母親は、たぶん、また来る。派手さで来た客は、派手さが消えれば、来なくなる。だが、あの一杯を覚えている客は、違う。


要は記事を読んで、浜口に数字を聞いた。


「その日の、客単価は」


浜口は帳簿を開いた。


「落ちてません。むしろいつもより高い。子連れの親が屋台で使ってます。片手が空いてるから」


「客数は」


「二百人ふえました。子どもと、その親で。前半で帰った客は、ゼロです」


要はうなずいた。


タダ券を配れば単価が落ちる。それが常識だった。要はその常識を裏返した。子どもはタダで入れる。だがその親が初めてゆっくり金を使う。子どもが席を埋めるのではない。子どもが親を連れてくる。


浜口が帳簿を閉じた。


「正直、無理だと思ってました。子どものタダ券なんて、赤字の種でしかないと」


「僕も、半分そう思ってました」


要は言った。


「だから走らせたんです。見せるのは無理でも、走るのは好きだから」


浜口はその言葉を少し噛みしめるように聞いていた。ひと月前、要はロゴを刷ったTシャツで赤字を出したばかりだった。立派なグッズを作れば売れる。そう読んで外した。倉庫にはまだ売れ残りの箱が積んである。


「要さんは」


浜口は言った。


「人が、欲しがるものを、外すときがある。この前の、Tシャツみたいに。……でも、なんで今回は、当たったんですかね」


「あのときは、僕が『いいもの』を、押しつけた」


要は言った。


「今回は、子どもが、もともと欲しかったものを、置いただけです。走ること。それは、僕が考えたものじゃない。駐車場の、あの子が、教えてくれた」


その記事は少しずつ読まれた。十万PVにはならなかった。だが二百PVでもなかった。母親たちの間で静かに回っていった。


【B.ONE】潮見ブルーホエールズ 応援スレ Part72


612 名無しの潮見住民

昨日の記事見た

試合後にコート走らせるやつ


613 名無しの潮見住民

あれいいな

うちも下の子いるから行けなかったんだよ

託児あるなら行ける


614 名無しの潮見住民

>>613 同じく

バスケ興味なかったけど

子供が走れるなら連れてくわ


615 名無しの潮見住民

ちょっと待て

これ発表されたとき、ボロクソ言われてたの覚えてるか

「タダ券とか正気か」「子供入れても金にならん、赤字の種」って


616 名無しの潮見住民

>>615 言われてた

俺も「そんな甘い集客で経営もつのかよ」って書いた側だわ


617 名無しの潮見住民

それが、蓋開けたら客単価むしろ上がってるらしいぞ

親が子供を託児に預けて、初めて屋台でゆっくり使うんだと


618 名無しの解説役

これ、からくりがうまい

子供はタダ。でも同伴の親が金を落とす

「タダ券=赤字」って常識を、同伴者効果で裏返してる

客数を増やして、客単価も落とさない。両取りだ


619 名無しの他クラブサポ

正直、うちも真似したい

でも託児のコストと保育士の手配がネックで、どこも手を出せてない

よく踏み込んだわ潮見


620 名無しの潮見住民

>>616 「赤字の種」って書いた俺、謝るわ

前半で帰る客、ゼロだってよ


621 名無しの潮見住民

つーか、誰が考えたんだこれ

記事にもフロントの名前とか一切出てこないし

選手でもないよな


622 名無しの潮見住民

>>621 まあ誰でもいいわ

去年まで子連れで行くとこじゃなかったのに、一年で変わりすぎ

土曜、下の子連れて行ってくる


手柄は、走った子どもと、その母親と、記事のものだった。それでいい、と要も思っていた。



記事が回り始めた週に、保育園から電話があった。


小柳(こやなぎ)芙美(ふみ)と名乗った。試合の日の託児に、保育士を出してくれている園の園長だった。


「一つ、お願いがあります。うちを出た子たちが、公民館でダンスを習っているんです。小学生が、十四人」


小柳は言った。


「習う場所は、あるんです。見せる場所が無くて。市民ホールが閉まってから、ずっと」


要はハーフタイムの十五分を思い浮かべた。モップが通って、選手が戻ってくるまで、誰も使っていない床だった。


「五分なら、お貸しできます。謝礼は、出せません」


「いりません。あの子たちが立つ場所が、あればいいんです」


最初の五分は次のホームゲームだった。モップの引き上げたコートで、揃いのTシャツの小学生が一曲踊って、客席に頭を下げた。あちこちで、親がカメラを構えていた。


次の月には婦人会のフラダンスが来て、和太鼓の会が続いた。札と同じだった。一枚掛かると次が来る。


ハーフタイムの十五分は、町の枠になった。



要はただ、次の数字を見ていた。


二千八百。損益分岐の三千五百まで、あと七百。開幕のころより、隙間は縮んでいた。子供と親が、詰めたぶんだ。初めて、実績のほうから、線に近づいた。


だが、昇格の四千には、まだ千二百。損益分岐にも、届かない。その差はぜんぶ、要の私財が埋めている。ここから先は、もう「元から興味のある人」では、埋まらない。

――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

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