第64話 走れるなら
その日の開場前、体育館の前の景色が、いつもと違っていた。
ベビーカーが何台も並んでいた。手をつないだ親子。抱っこひもの赤ん坊。去年までこの体育館は、ひとりで来る中年の男か商店街の常連が、ぽつぽつ来るだけの場所だった。要実は入口の脇から、その列を見ていた。数えなくてもいつもより多いのが分かった。
浜口が横に来て、小さく言った。
「……こんなに、来るとは」
「保育園を、七つ回りました」
要は言った。
「園から家に、券が渡る。母親どうしで、また話が回る。一枚の券が、そのまま一枚では、終わらないんです」
その母親は入口で、少しだけ迷っていた。
三歳くらいの男の子の手を引いている。子どもはもう片方の靴を脱ぎかけていて、母親はそれを直しながら、壁の掲示を見ていた。
「託児、こちらです」
受付の女性が声をかけた。試合の日だけクラブが雇った、保育士だった。ふだんは町の保育園で働いている人に、休日ではなく仕事として来てもらっている。
「あの……ほんとに、預けていいんですか」
母親は券を握ったまま言った。
「この子がいると、上の子の参観にも行けなくて。人に預けたこと、一度もなくて」
「大丈夫ですよ」
保育士はしゃがんで、子どもと目を合わせた。
「試合のあいだ、ここで遊ぼうか。終わったらママと、あの広いところで走れるって」
子どもはコートを指さした。だだっ広い床が、照明の下で光っていた。
母親はまだ迷っていた。それから、武道場のほうを覗いた。
畳の広間に、もう何人もの子どもがいた。マットが敷かれ、積み木や絵本が散らばっている。保育士が三人。走り回る子を危なげなく見ていた。事務室の隅なら、数人で満杯だっただろう。ここは違った。何十人でも預かれる広さがあった。
母親は、券の裏の一行を、もう一度読んだ。
『しあいのあと、コートを三十分、はしれます』
「……じゃあ、少しだけ」
母親は子どもを預けた。そして子どもが生まれてから久しぶりに、一人で席に座った。両手が空いていた。
ハーフタイムに、その母親は屋台の列に並んでいた。
隣に子どもはいない。
「小さいおにぎり、二つ。あと……ビール、一つ」
総菜屋の婆さんが塩むすびを包んだ。鍬形と組んで、この日から屋台に足したものだ。子どもの手でも持てる大きさに握ってある。
「子ども、預けてきたのかい」
「はい」
「珍しいねえ。ここの試合に子連れなんて、まず来なかったよ」
「来られなかったんです」
母親はそう言って、ビールを一口飲んだ。
「久しぶりです。座って飲むの」
浜口は事務室の窓から、その列を数えていた。
子連れの親が屋台に並んでいる。片手が空いているから、財布が出せる。子どもを追いかけていたら、できないことだった。単価が落ちるどころか、むしろ上がっていた。
試合は潮見が競り負けた。二点差だった。
だが席を立つ親はいなかった。最後の一分までみんな座っていた。子どもがあのコートで走るのを、見るためだった。
終了のブザーが鳴った。選手が引き上げ、モップが床を拭いていく。客の半分ほどが帰っていく。いつもなら、そこで一日が終わりだった。
だがその日は違った。
コートの端に、子どもたちが集まっていた。託児から戻ってきた、小さい子たちだ。さっきの三歳の男の子もいた。母親の手を振りほどいて、白い線をじっと見ている。
「よーい」
若い選手の声がした。
「どん」
子どもたちが走った。端から端まで。ふだんは選手だけが立つ床を、小さな足が、いくつも踏んでいく。転ぶ子もいた。途中で止まって、天井を見上げる子もいた。それでもみんな笑っていた。畳の上で二時間遊んで、それでも体力の余っている子どもたちだった。
あの三歳の子は半分で転んだ。膝を床について、一瞬、泣きそうな顔をした。それでも立ち上がって、また走り出した。ゴールの線を越えたとき、両手を上げた。誰かに勝ったわけではない。ただ、端まで、たどり着いた。
列のいちばん前に、去年から通っている子がいた。五歳になる陸だった。自分の番はとうに終わっていたのに、まだそこに立って、あとから来る子に、走る場所を教えていた。
母親はそれをスマホで撮っていた。手が少し震えていた。
「あの子、家だと五分も、じっとしてられないんです」
母親は隣の保育士にそう言った。
「試合のあいだ、迷惑かけませんでしたか」
「走り回ってましたよ」
保育士は言った。
「ずっと。……三歳は、そういうものです」
母親は少し笑った。それから、コートのほうを見た。
「わたし、試合を最後まで見たの、何年ぶりだろう」
保育士はうなずいた。
「そこなんだと思います」
保育士は言った。
「三歳の子に、二時間おとなしくしてろというのは、無理な相談です。十五分でも、たいてい保ちません」
保育士は走っている子どもたちのほうを見た。
「だから、待たせないんです。遊ばせて、終わってから、走らせる。……そのあいだに、お母さんが試合を見られる。それが、いちばん大きいと思います」
要は、その会話を、少し離れたところで聞いていた。
見せようとするから、無理が出る。駐車場のあの子が、教えてくれたことだった。
だが、要が描いた絵は、半分だけ違っていた。
要は子どもに我慢させるつもりでいた。ごほうびを後ろに置けば、粘るだろうと。粘らなかった。三歳は粘らない。粘る必要が無くなっただけだった。
がまんした人間は、この日、一人もいなかった。
子どもは畳の上で遊んでいた。親は席に座って、試合を見ていた。要が用意したのは、その二つだけだった。
要実は二階の通路から、それを見ていた。
一年前、この体育館は五千席が全部空席だった。今もまだ、その席は半分しか埋まっていない。
だが選手のいなくなった空っぽのコートが、初めて子どもの声で埋まっていた。
誰も値をつけなかった、三十分だった。
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