第63話 三十分の、貸し切り
「保育園、ですか」
佐伯涼真がメモから顔を上げた。
「子どもを直接集めるのは、難しい」
要は言った。
「だが、子どもは必ずどこかに集まってる。平日の昼間に。──保育園です」
佐伯は少し考えて、ペンを回した。
「園に招待券をまとめて渡す。園から、家庭に配ってもらう。……なるほど。一軒一軒配るより、早い」
「それだけじゃ、ない」
要は続けた。
「園と組めば、先生が子どもの扱いを知ってる。うちには、いない知識です」
だがそこで宮里澪が口を挟んだ。
「先生に、休日に働いてもらうんですか」
宮里の声は静かだったが、芯があった。
「試合は土日です。保育士さんの、休みの日だ。招待した子をその先生に見てもらうなら、それは休日出勤です。……園の厚意に、うちがただ乗りすることになる」
要は宮里を見た。
その指摘も正しかった。
「乗りません」
要は言った。
「試合の間、子どもを見る人は、うちが雇います」
浜口が顔を上げた。
「雇う?」
「保育士を、一時的に。試合の日だけ。ちゃんと日当を払って」
「場所は、どこにします」
浜口が聞いた。
「最初は、事務室の隅を考えてました」
要は言った。
「でも、狭すぎる。子どもが二十人も三十人も来たら、あそこには入らない。……いや、来てもらわないと意味がない。狭い場所を前提にしたら、それだけしか呼べなくなる」
要は体育館の見取り図を机に広げた。指がコートでも客席でもない場所で止まった。試合の日、いつも鍵の閉まっている奥の部屋だった。
「武道場。ここ、試合の日は使ってませんよね」
「……ええ。柔道と剣道の。畳の広間です。土日は、たいてい空いてます」
「畳なら、小さい子が転んでもけがをしにくい。広さも、ある。何十人でも見られる」
要は言った。
「試合後の空きコートと、同じです。この体育館には、試合の日に誰も使っていない場所が、まだいくつもあった」
浜口がその見取り図を見た。要がまた一つ、値のついていない空間を拾っていた。
「あの武道場を、託児にします。試合の間、子どもはそこで、うちの雇った保育士が見る。親は──」
要はそこで言葉を切った。
「親は、試合を見られます。初めて」
浜口がゆっくりとその意味を飲み込んだ。
「……子どもを、預けて。親だけで、席に座る」
「親は、二時間、子どもを追いかけなくていい。ゆっくり試合を見て、ハーフタイムに屋台で何か買う。子ども連れが初めて、屋台に寄れるんです」
「客単価を、落とさずに──」
「客数を、増やす」
浜口は電卓を引き寄せた。指が少し速くなっていた。
「保育士の日当。託児スペースの保険。試合後のコートの清掃と、追加の保険。……三十分コートを開けるなら、その間のけがの備えも要る」
「全部、要ります」
要は言った。
「その全部を足しても、屋台で親が一人、千円使えば釣りが来る」
浜口は電卓を叩き終えて、小さく息を吐いた。
「……釣りは、来ます。ぎりぎり」
その日の夕方、要は鍬形の焼き鳥屋に寄った。
「小さい子が食えるもんを、屋台に足してほしい」
鍬形は串を焼く手を止めなかった。
「うちの焼き鳥は、子どもにゃ串が危ねえな」
「串じゃない、もので」
鍬形は少し考えた。
「……小せえ、おにぎりなら。塩だけの。総菜屋の婆さんと、組むか」
鍬形は初めて笑った。
「考えたな。子ども向けの飯なんざ、どこの体育館にも置いてねえ。焼きそばと、唐揚げと、ビール。……ガキが食えるもんが、ねえ」
「無いから、やります」
要は言った。
「無いってことは、誰もやってない。誰もやってないってことは、まだ値がついてない」
鍬形は串を裏返した。脂が炭に落ちて、白い煙が上がった。
「あんた、いっつもそれだな。誰もやってねえとこを、拾う」
「拾えるのが、そこしかないんです」
要は言った。
「うちには、金がない。人が見向きもしないものしか、うちには拾えない」
一ノ瀬たちのことは佐伯に頼んだ。
「試合後のコートに、選手を何人か。子どもと一緒に走る係が、要る」
「主力は疲れてます。試合の、後だ」
佐伯が言った。
要は名簿を指でたどった。
そして、一つの名で止まった。
まだ試合に出ていない番号。夏に来た、育成枠の若い番号だった。高校で、部員が七人しかいなかった子だ。誰にもまともに教えてもらえないまま。それでも独りで体育館に残っていた。要が去年、拾ってきた。
「この子は、試合に出てない。だから──試合の後に、体力が余ってる」
要は言った。
「主力を、疲れさせずに済みます」
佐伯がその名簿を覗き込んだ。
「その子で、記事、書けますかね」
「まだ、書かないでください」
要は言った。
「やってみて、何かが起きてから。起きなかったら、記事は無しです」
佐伯は少し笑った。
「珍しいですね。フロントの人が、『まだ書くな』って言うの。普通は、逆だ。何も起きてないうちから、『いい話にしてくれ』って言われる」
「起きてないことは、書けない」
要は言った。
「起きてから、拾ってください。あなたは、それが上手い」
佐伯はペンを耳に挟んだ。造船所の最後の一日を書いた男の目が、少しだけ変わっていた。
その週の終わり、招待券が刷り上がった。
券には大きく、一行だけ書いてあった。
『さいごまで見たら、コートを走れるよ』
浜口が、その券を一枚、手に取った。
「……試合を見に来て、と書いてない」
「書きません」
要は言った。
「走りに来てほしいんです。見るのは、そのついででいい」
券が配られ始めると、外野は冷ややかだった。
浜口がその温度を伝えに来た。
「あまり、評判よくないです。『タダ券なんて赤字の種』『子供を入れても金にならない』と」
「そうでしょうね」
要は驚かなかった。タダで席を配れば単価が下がる。それが常識だ。その常識を裏返せるかどうかは、やってみないと分からない。
「裏返せなかったら、僕がまた一つ、外したことになる。……グッズの、隣に」
初回のイベントまで、あと一週間だった。
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