第62話 見せない、走らせる
その子は、リングの無い駐車場で、ずっとボールをついていた。
壁に向かって投げて、跳ね返りを捕る。それだけを、飽きずに繰り返している。ゴールが無いから、シュートは無い。ただ、ボールが手に吸いつく感触だけを確かめているようだった。
要実はしばらくそれを見ていた。
翌朝、事務室で、要は浜口に言った。
「子どもを、招待したい」
浜口の手が電卓の上で止まった。
「招待、というと」
「試合の券を、配る。近くの子どもに」
浜口は少し間を置いた。それから、電卓を横に置いた。
「要さん。タダ券は、諸刃です」
浜口の声は責める調子ではなかった。ただ、事務の人間として、言わねばならないことを言う声だった。
「席を、タダで埋めると、単価が下がります。子ども一人が座った席は、一円も生みません。うちは今、二千五百人で、やっと回してる。その席を、無料で配ると──」
「客単価が、落ちる」
「はい」
浜口は続けた。
「それに、子どもは試合を最後まで見ません。飽きます。前半で、ぐずり出す。すると、親が連れて帰る。二時間の試合を、三十分で出ていく」
「屋台で、使う前に、ですね」
「そうです」
浜口の指摘は正しかった。要はそれを否定しなかった。子どもを入れれば、席は埋まる。だが埋まった席は、金を生まないどころか、隣の親まで早く帰らせる。数字の上では来場者が増えて、売上は減る。最悪の形だ。
要はひと月前の自分を思い出していた。
痩せた鯨のロゴを刷った、Tシャツとタオル。立派なグッズを作れば、売れると思った。売れなかった。段ボールの箱が、今も倉庫に積んである。人が、金を出して、欲しくなるもの。それを要は読み違えた。
数字は読める。選手も読める。だが、人が何を欲しがるか。そこだけが要にはいつも見えなかった。
だから、今度は慎重だった。
「浜口さん。子どもが、欲しいものは、なんだと思いますか」
「……お菓子、とか」
「違うと思うんです」
要は窓の外を見た。
駐車場の子はまだボールをついていた。
「浜口さん。あの子は、なんであそこでボールをついてると思いますか」
浜口が窓を見た。
「……好き、なんでしょう。ボールが」
「試合を、見たいわけじゃない」
要は言った。
「あの子は、二時間座って人のプレーを見たいわけじゃない。自分で、触りたいんです。走りたいんです。それだけだ」
浜口は黙った。
「見せようとするから、無理が出る」
要は続けた。
「子どもに、二時間座って見ろというのが、そもそも間違ってる。あの子たちは、観客には向いてない」
「では──」
「見せない」
要は言った。
「走らせます。試合が、終わった後に」
浜口が顔を上げた。
「試合が終わったら、あのコートはただ空くだけです。五千人が帰った後、誰も使わない。掃除して、鍵を閉めて、終わり」
「あの、空いたコートを、子どもに開ける。三十分だけ」
要は指を机の上のコートの図に置いた。試合が終わって、選手が引き上げた、その後の床。
「子どもに言うんです。『最後まで、我慢して見られたら、あのコートを、走れる』と」
浜口の目が少し動いた。
「……ごほうびを、後ろに置く」
「そうです。前半で、ぐずっても、親が言える。『もう少し我慢したら、走れるよ』と」
要はそこで一度言葉を切った。
「……粘るかどうかは、読めません。子どものことは、僕には、読めない」
浜口はしばらくその図を見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
「一つ、抜けてます」
「なんですか」
「小さい子を連れた親は、そもそも来られません」
浜口は言った。
「試合の間じゅう、子どもを追いかけることになる。走り回るのを、追いかけて、外に連れ出して。それじゃ、試合なんて、見られない。だから、あの層は──来ないんじゃない。来られないんです」
要は浜口を見た。
浜口の言葉は、要がまだ絵に描けていなかった、一番奥の壁だった。子どもが見ないのではない。子どもを連れた家族がまるごと、この体育館から締め出されている。
要は、少しの間、黙った。
そして、言った。
「その壁も、たぶん、こじ開けられます」
「どうやって」
「考えます」
要はコートの図を鞄にしまった。
駐車場の子は、いつのまにか、いなくなっていた。ボールの跳ねる音も消えていた。
要はその音の消えた駐車場をもう一度だけ見た。
去年はこの景色を見ても何も思わなかった。壁の前に絵が無かった。
今は少しだけ見えていた。
あそこに、四千人の半分がいる。まだ誰も値をつけていない、席が。
要は、鞄からコートの図を出して、もう一度開いた。試合の後の、空いた床。誰も使わない、三十分。
そこに初めて、細い線を一本、引いた。
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