第60話 手ぬぐいは、売れた
グッズの在庫はまだ倉庫にあった。
痩せた鯨のTシャツが、半分以上、売れ残っている。
要は、それをどうするか、決めかねていた。
佐伯が要のところへ来た。
「オーナー。グッズ、もう一回、やりませんか」
「……また、赤字を出せと?」
「今度は、ロゴじゃないです」
佐伯は一枚の布を出した。
手ぬぐいだった。柄は赤い。鍬形の焼き鳥屋のあの暖簾と同じ色、同じ柄だった。
「これ、鍬形さんの暖簾です」
佐伯は言った。
「屋台で、これを売る。クラブのロゴは、隅に小さく入れるだけ」
「……鯨は」
「要りません」
佐伯は言った。
「みんな、鯨のロゴは欲しくない。でも、鍬形さんの屋台は好きなんです。あの記事を、読んだから」
それだけではなかった。
佐伯はもう一つ案を出した。
去年、商店街が体育館の壁に掛けた、あの札。すすけた木の、ばらばらの札だ。
「あれのミニチュアを作りませんか。自分の名前を、入れられる木札を」
「……客が、自分の名前を?」
「席に、名前を入れた人がいたでしょう。あれと、同じです。人は、"見る"だけじゃ足りない。"参加したい"んです」
佐伯は言った。
「痩せた鯨を着せるんじゃない。この町の物語の中に、入れてあげるんです」
その週の試合。
屋台の隣に、手ぬぐいと木札の棚が出た。
売れた。
手ぬぐいを、鍬形の屋台で焼き鳥と一緒に買っていく客がいた。木札に、子どもの名前を書いて、壁に掛けていく家族がいた。
痩せた鯨のTシャツは、一枚も売れなかった。
だが、暖簾の手ぬぐいは、初日ではけた。
木札の棚の前に、あの李濬浩のとなりの席を選んだ子の一家がいた。
子どもが木札に名前を書いていた。自分の名前と、その下に、もう一つ。
「李濬浩」と、どこかで見た字を写したような、いびつな形で書いてある。
「なんで、李濬浩の名前も?」
佐伯が聞くと子どもは言った。
「あの人、木札、自分で書かないと思うから。日本語、書けないでしょ」
佐伯はその木札を写真に撮った。
次の記事は、これだ、と思った。
その日、鍬形が、手ぬぐいを首に巻いて焼いていた。自分の店の暖簾の柄だ。
「おい、要さんよ。これ、考えたの、あの記者か」
「はい」
「……悪くねえな」
鍬形は、それだけ言って、また串を返した。だが、その首の手ぬぐいを外そうとはしなかった。
浜口が伝票を持ってきた。
「……手ぬぐい、完売です」
浜口の声が少し明るかった。
「Tシャツの赤字を、全部は埋められません。でも、半分は、戻りました」
浜口は続けた。
「佐伯さんを入れて、損益分岐は、三千五百に上がってます。……手ぬぐいで戻したのは、その線のほんの一部です。でも」
浜口は少し言葉を切った。
「初めて、要さんの持ち出しをこっちから押し返せました」
要は頷いた。上がった線にはまだ届かない。だが、投資が数字で返ることも、あるらしい。
Tシャツの赤字は要の失敗だった。消えない。
だが、その失敗が、一つ教えた。
人が買うのはロゴではない。物語だ。
それを、要はリー・ジュノで知っていたのに、忘れていた。そして、思い出させたのは、要ではなかった。
要は倉庫の売れ残ったTシャツを見に行った。
痩せた鯨が、畳まれて、積まれている。
去年、要はこの鯨を灰色の壁で見た。痩せて、色を失った鯨だ。
(……まだ、物語が、足りない)
このロゴに値段がつく日は、たぶん、来る。
だが、それは勝ち星でも、要の目利きでもない。この町が、この鯨をもう一度、好きになったときだ。
要は、Tシャツを一枚手に取った。そして、畳み直して、棚に戻した。
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