第57話 誰にも読まれなかった記事
要実はその切り抜きを鞄から出した。
何年か前の、地方紙の記事だ。
造船所が閉まる、最後の日。工員たちのその一日を追ったものだった。特別な事件は何も起きない。ただ、男たちが最後の作業をして、道具を片づけて、門を出る。それだけの記事だ。
見出しは地味だった。写真も、一枚きり。
誰も、読まなかった。
だが要はそれを覚えていた。造船所が消えた年、要はまだこの町にいた。父の店に、その新聞が置いてあった。
署名があった。
佐伯涼真。
佐伯は、もう、その新聞社にいなかった。
Webの媒体に移って、そこも辞めかけていた。
要が会いに行くと、佐伯は狭い喫煙所でスマホを見ていた。二十代の後半。少し、疲れた顔をしている。
「潮見ブルーホエールズ?」
佐伯は、要の名刺を見て、鼻で笑った。
「広報を、探してるんです」
「バスケの?」
佐伯はスマホを要に見せた。
「今、俺が書いてる記事、これですよ。『芸能人の、めし画像まとめ』。これで、十万PV。……この前書いた、地元の商店街の特集は、二百PVでした」
佐伯は煙を吐いた。
「刺さる記事は、読まれない。くだらない記事が、読まれる。……そういう仕事です、これは」
一度、いい記事を書いたと思ったことがある。町の小さな銭湯が閉まる話だ。三日通って、店主に話を聞いた。
上司はそれを載せなかった。「PV、出ないから」と。
代わりにその日、佐伯が載せたのは、コンビニの新商品の写真だった。五分で書いた。それが、その月、いちばん読まれた記事になった。
「そういう仕事をしてると」
佐伯は言った。
「だんだん、自分が何を書きたかったか、忘れるんですよ」
要はあの切り抜きをテーブルに置いた。
佐伯の手が止まった。
「これ、あなたですよね」
佐伯はそれをしばらく見ていた。
「……よく、持ってますね、そんなの」
「うちの父の店に、置いてありました」
佐伯は切り抜きから目を離さなかった。
「その記事、誰にも読まれなかったんです。PV、三百でした。上司には『地味だ』って言われて、危うく、載らないところだった」
「俺は、読みました」
要は言った。
「造船所のやつらが、朝、うちの店で煙草を買ってました。あの記事に出てくる工員の一人は、たぶん、俺の知ってる人でした」
佐伯は顔を上げた。
「うちのクラブは」
要は言った。
「伝われば刺さる話しか、持っていません。屋台の親父。二人ぶん走った選手。膝の壊れたベテラン。……伝える人間が、いないだけです」
佐伯は切り抜きを指で撫でた。
「PVは、出ませんよ。俺が書くと、たぶん、バズらない。地味な記事しか、書けないんで」
「バズらなくて、いいです」
要は言った。
「刺されば、いい。……一人に、深く」
佐伯はしばらく黙っていた。
それから、切り抜きを要に返そうとして――やめた。
「これ、もらっていいですか」
「どうぞ」
「……その記事、覚えててくれた人、あなたが、初めてです」
それで決まりだった。
帰り道、要は思った。
この男を口説くのに、うまい言葉は要らなかった。
誰にも読まれなかった記事を、一人が覚えていた。それだけで、足りた。
値付けされなかったものに、値をつける。選手も、スタッフも、同じだった。
だが、そのスタッフに最初に見せることになるのは、要自身のいちばん新しい失敗だった。倉庫に、その失敗はもう積まれ始めていた。
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