第56話 折れるはずだった骨
十月が終わった。
開幕から十試合で四勝六敗。
去年の同じ時期は十戦全敗だった。
守り勝ちが形になってきていた。サントスがゴール下に立ち、東が外を消す。そして――選手が、壊れていない。
宮里澪の仕事は、相変わらず地味だった。
毎日、数値を測る。誰かの練習を途中で止める。連戦の二日目に、誰かを二十分で下げる。
何も、起きない。
志水は疲労骨折をしなかった。東の膝は去年よりもっている。
それは、宮里がいなくても、そうなったかもしれない。誰にも分からない。"何も起きなかった"のだから。
その証明できなさが、この仕事のいちばんきついところだった。
一度、浜口が、宮里に聞いた。
「宮里さん。……正直、費用対効果が、まだ分からないんですよ。あなたのおかげで、何が良くなったんですか」
宮里は少し考えて答えた。
「何も、悪くなってません」
「……それは、答えになってますか」
「なってません」
宮里は言った。
「でも、それが、答えなんです」
浜口はその答えをノートに書き留めた。分からないまま、書き留めた。いつか分かる日が来るかもしれない、という顔で。
その夜、浜口は、要に別の数字を見せた。
「宮里さんを入れて、損益分岐が上がりました。三千から、三千三百に」
浜口は言った。
「トレーナーの人件費ぶんです。……つまり、あと三百人ぶん、要さんの持ち出しが増えました」
要はその数字を見た。春に、浜口が言った通りだった。いい投資をするほど、超える線が、高くなる。
「それでも、雇いました」
要は言った。
「僕が、埋めます。……あの人が、いつかこの三百人ぶんを返してくれるまで」
浜口は、その"いつか"を、まだ数字で書けずにいた。要の私財が、その"いつか"より先に尽きたら、どうなるか。それも書けなかった。
ある日、宮里が、番場剛の膝を見ていた。
番場はテーピングだらけの膝を宮里の前に出していた。
「……ひどいもんだろ」
番場は笑った。
宮里は笑わなかった。その膝を長いこと触っていた。古い手術の痕。すり減った軟骨。この膝でまだ跳んでいることのほうが、宮里には信じられなかった。
「番場さん」
「あん?」
「あと、何年、やるつもりですか」
番場は少し黙った。
「……知らねえよ。気がついたら、やってる」
宮里は頷いた。それ以上は言わなかった。
膝から手を離すと、テープを一本、巻き直した。前より、少しきつく。番場が少し驚いた顔をした。
十七年、この膝は、番場一人のものだった。痛いのも、庇うのも、隠すのも、全部、一人でやってきた。
その膝を、黙って巻き直す人間が、この会社にいる。
初めてのことだった。
要はそれを二階から見ていた。
宮里が来て、選手の体を、誰かが見るようになった。床が半分、新しくなった。郷田が自分で駒を選べるようになった。東は二人ぶん走らなくてよくなった。
どれも、去年より、いい。
だが、どれも、外からは見えない。
壁の札は増えた。観客も増えた。だが、四千人には、まだ遠い。あと二千人をどう増やすか。要はまだその絵を持っていなかった。
去年、要が集客を伸ばしたのは、屋台と、東と、掲示板だった。
屋台は鍬形が焼いている。東はコートで走っている。掲示板は町の誰かが勝手に書いている。
どれも要のものではない。
そして、掲示板は、こちらの都合では動かない。褒めるも、叩くも、あちら次第だ。
クラブが、自分の言葉で、自分の物語を語る。その口が一つも無かった。
去年はそれでよかった。まず、潰れないことが先だった。
だが今年は違う。
このクラブには、語るべきものが増えていた。守り勝ち。壊れない選手。半分だけ新しい床。膝を、いつも見てもらう番場。
黙っていても、勝てば、少しは伝わる。
だが、"黙っていても伝わる"のを待っていたら、四千人には一生届かない。
見えないものを、伝える人間が、要る。
要は一枚の古い新聞の切り抜きを思い出していた。
何年か前、誰にも読まれなかった署名記事。造船所が閉まる日の工員たちを追った記事だ。
その記事を書いた人間の名前を、要は覚えていた。
佐伯涼真。
要は、その切り抜きを鞄に入れた。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




