第53話 当たり前だろ
宮里澪が潮見に来た初日。
いちばん身構えていたのは、郷田学に会うことだった。
前の職場で、宮里がいちばん揉めたのは、現場だった。
一度、こういうことがあった。
若手が膝に違和感を訴えた。宮里は数値を見て、「二試合、外してください」と言った。だが、その二試合は、大事な連戦だった。監督は宮里の言葉を覆した。「一試合だけ、出す」と。
若手はその一試合で、膝を本格的に壊した。
半年、離脱した。戻ってきたとき、その選手は、もう前の動きができなくなっていた。
宮里はそれを止められなかった。
だから、あの厳ついヘッドコーチの顔を見たとき、宮里は身構えた。また、同じことが起きる、と。
要も、正直、少し覚悟していた。郷田は勝利至上の男だ。医療の線引きで揉めるかもしれない。
要が宮里の条件を郷田に伝えた。
"この選手は出せない"と宮里が言ったら、それが通る。監督も覆せない。
郷田は、それを聞いて、一言だけ言った。
「……当たり前だろ」
宮里が瞬きした。
「壊れた選手は、二度と戻らねえ。俺はな、それを、いやってほど見てきたんだよ」
郷田は腕を組んだ。
「五年前だ。うちに、いい若手がいた。志水より、上手かった」
要は初めて聞く話だった。
「膝が、腫れてた。だが、そいつは出たがった。俺も……使いたかった。勝ちたかったからな」
郷田の声は静かだった。
「出した。そいつは、その試合で膝を割った。……次の年、いなかった。今は、どこで何やってるかも知らねえ」
郷田はそこで口を閉じた。
「勝ちてえよ。俺は、誰より勝ちてえ。……だがな。選手を使い潰して勝つのは、勝ちじゃねえ。ただの、消耗だ」
要はその言葉を聞いていた。
郷田の"勝利至上"は、選手を駒として使い潰すことだと、要もどこかで思っていた。
違った。
この男が守りたいのは、勝ちではなかった。選手が路頭に迷わないこと。全員が来年もここにいること。そのために勝ちたいのだ。
宮里はしばらく郷田を見ていた。
「……揉めると、思ってました。医療の判断で。前の職場では、いつも揉めたので」
郷田は鼻を鳴らした。
「揉めるかよ」
そして、言った。
「俺が揉めるのは、勝ち方の話でだ。誰を、いつ出すか。そこは俺の領分だ。……だが、出せる体かどうかは、あんたの領分だろうが」
宮里は答えられなかった。
領分を分けてくれた人間に、会ったことが、なかったからだ。
その日から、宮里は、練習場の隅に机を一つ置いた。
選手が一人ずつ、そこへ来る。膝を見せ、足首を見せ、宮里が触る。最初はみんな戸惑っていた。体を人に預けるのに慣れていない。
番場が若手に言った。
「行っとけ。……こういうのが、いるだけで、違う」
番場は、それ以上、説明しなかった。だが、十七年一人で膝を庇ってきた男の言葉には、重みがあった。
若手が、順番に、机の前に並んだ。
要は、その一部始終を、離れて聞いていた。
郷田が五年前に失った若手の名前を、要は知らない。記録には残っていない。半年離脱して、そのまま消えた選手だ。誰も、覚えていない。
だが、郷田は覚えていた。
数字を憎むふりをして、誰より選手を見ている男だ。一ヶ月ぶんの失点を、手書きで数えたのも、たぶん、同じ理由だった。
その夜、宮里は要に、一言だけ言った。
「あのヘッドコーチ」
「はい」
「……こわい顔して、いちばん、選手のこと考えてますね」
要は、コーチ室のほうを一度見た。
「はい。……たぶん、この会社で、いちばん」
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