第52話 誰も、礼を言わない
宮里澪は、要が想像していたより、若かった。名簿の小さな欄にあったのは名前だけで、年も女性だということも、そこからは読めなかった。
そして、警戒していた。
駅前の喫茶店で、宮里は要の名刺をしばらく見ていた。
「潮見ブルーホエールズ……最下位の」
「今は、開幕から三連勝です」
「……そうですか」
宮里の声は平坦だった。営業に来た相手を、追い返すときの声だった。
この半年、宮里は、次の職場が決まっていなかった。
トレーナーの募集はあることはある。だが、宮里の経歴は、面接でうまく光らなかった。
「三年間、担当したチームで、主力の離脱がゼロでした」
そう言っても面接官はぴんと来ない顔をする。「で、何をしたんですか」と聞かれる。何もしていない、が答えだ。何も起こさないのが仕事だった。
派手なリハビリの実績を持つ人間は、面接で強い。宮里にはそれが無かった。
「三年前から、あなたのいたクラブの離脱日数を見ました」
要は言った。
宮里の指がコーヒーカップの上で止まった。
「あなたがいた三年だけ、主力が誰も長期離脱していません。あなたが抜けた去年、元に戻りました」
「……偶然です」
「三年、偶然が続きますか」
宮里は答えなかった。
「予防って」
宮里はしばらくして口を開いた。
「成果が、"何も起きなかったこと"なんです」
カップを両手で包んでいる。
「前の職場で、一人、止めたことがあります。エースを、二週間、練習から外しました。数値が、危なかったので」
「……それで」
「何も、起きませんでした。エースは、二週間後に戻って、そのシーズン、一試合も休まなかった」
宮里はカップを見ていた。
「感謝は、されません。何も起きてないから。むしろ、外した二週間を『あれは要らなかったんじゃないか』と言われる」
だから、経営が苦しくなると真っ先に切られる。チーフの椅子は、派手なリハビリで名を上げた男に渡った。宮里は二番手のまま、弾かれた。
「うちに、来てください」
要は言った。
「常勤のトレーナーがいません。……というより、この十年、一度もいなかった」
宮里は要を見た。すぐには頷かなかった。
「一つ、条件があります」
「はい」
「給料じゃ、ありません」
宮里は言った。
「"この選手は、今日は出せない"――私がそう言ったとき、それが通ること。監督にも、フロントにも、覆されないこと。それを、約束してください」
前の職場で、たぶん、それが通らなかったのだ。止めようとして覆されて、選手が壊れるのを見た。そういう目をしていた。
「約束します」
要は即答した。
宮里が少し驚いた顔をした。
「……即答、するんですね」
「はい。……その代わり、一つ返します」
「なんですか」
「止めた分を、数字で見せてください」
宮里の眉が動いた。
「あなたが止めた怪我は、"起きなかったこと"だから、誰にも見えない。それを、見えるようにしてほしい。稼働率でも、連戦二日目の勝率でもいい。あなたが何を防いだのかを、数字にしてください」
情ではなく、物差しで応える。それが要のやり方だった。
宮里は名刺をもう一度見た。今度は追い返す目ではなかった。
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「なんで、私なんですか。もっと、名前の売れたトレーナーもいるでしょう」
「安いからです」
要は言った。
宮里が少し笑った。今日、初めて、本当に笑った顔だった。
「……ひどいですね」
「本当のことです。名前の売れた人は、高い。あなたは"何も起きなかったこと"しか手柄が無いから、安い。……うちには、それしか買えない」
去年、一ノ瀬に言ったのと、同じ言葉だった。安いからです、と。
だがそれは、この人たちがいちばん受け取れる、正直な形だった。
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