第54話 前日までに言え
宮里澪の仕事は地味だった。
選手の練習を数字で測る。何本ジャンプしたか。どれだけ走ったか。前の日と比べて、どれだけ疲れているか。
そういうものを、毎日、記録していく。
選手は、最初、戸惑っていた。今まで、そんなものを測る人間は、いなかったからだ。
「これ、意味あるんすか」
志水がそう聞いた。若手は疲れを認めたがらない。
「あなたの跳ぶ高さが、二センチ下がってます」
宮里は言った。
「本人が気づく前に、体は疲れてる。……二センチは、体からの最初の手紙です」
志水はその言葉をよく分からない顔で聞いていた。
だが次の日から、宮里の机の前に、いちばん最初に並ぶようになった。自分の体が二センチぶん、何かを言っている。それが少しこわくなったのだ。
最初のぶつかりは、価値観ではなかった。運用だった。
ある試合の二時間前。宮里が郷田のところへ来た。
「今日、志水を、出さないでください」
郷田の顔が変わった。
「……今日?」
「ジャンプの数値が、危険域です。今日、無理をすると、疲労骨折の可能性が――」
「二時間前だぞ」
郷田は言った。声は荒くなかった。だが、低かった。
「今日の采配は、もう組んである。志水を、後半のあの時間で使う前提で、全部だ。それを二時間前に崩せってか」
宮里は黙った。前の職場なら、ここで覆されていた。だから、身構えた。
だが、郷田は少し間を置いて言った。
「止めるのは、構わん」
「え」
「志水が危ねえなら、出さねえ。それは、あんたの領分だ。……だがな」
郷田は宮里を見た。
「二時間前に言うな。前日までに言え」
「……」
「前日に言われりゃ、俺は、志水抜きで勝つ形を作る。それが、俺の仕事だ。二時間前じゃ、それができねえ」
宮里はゆっくり頷いた。
「……はい」
「分かりゃ、いい」
郷田はそれだけ言って行った。
揉め事ではなかった。プロ同士の、擦り合わせだった。宮里はそれを初めて経験した。
その日から、宮里は前日までに報告するようになった。
「明日、志水は、負荷を落としてください」
「明日の東は、大丈夫です。ただ、連戦の二日目は、二十分で」
郷田はそれを聞いた。文句を言わなかった。前日に言われたぶんは、全部、采配に組み込んだ。
その週の試合。志水はベンチにいた。出たそうにしていた。
だが、郷田が代わりに使った若手が、その時間よく守った。潮見は五点差で勝った。
試合のあと郷田が宮里に言った。
「今日の勝ち、お前のぶんも入ってるからな」
宮里はきょとんとした。
「志水を、前日に外させたろ。おかげで、俺は別の手を組めた。……お前が黙ってたら、俺は今日、志水を後半で潰してた」
郷田はそれだけ言って行った。
宮里はしばらくその背中を見ていた。
"止めたこと"を、勝ちに数えてくれた人間は、初めてだった。
前の職場では、宮里が止めるたびに、現場の空気が少し重くなった。「またか」という顔をされた。止めることはチームに迷惑をかけることだった。
ここでは違った。
止めることが勝ちの一部になっている。
宮里はその夜、初めて、この町に来てよかったと思った。
要はそれを少し離れて見ていた。
去年まで、この会社で選手の体を気にする人間は、郷田一人だった。
今は、二人になった。
それだけで、東の膝は少しだけ、長くもつはずだった。
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