第46話 放出
要実はディオン・ベイカーを放出すると決めた。
浜口はそれを聞いても意外そうな顔をしなかった。
「……本社が、獲った選手ですね」
「ええ」
「前のオーナーの、最後の置き土産だ」
浜口はそう言って、それ以上は言わなかった。
要は一年前のことを思い出していた。
ベイカーは、財前が、郷田に一言も聞かずに押しつけた駒だった。点が取れる外国籍を獲れ。客が入る絵が欲しい。そういう指示だった。
そして今年の二月、その同じ男が、今度は金を持ってこの部屋に来た。大洋の名を、クラブに戻せ、と。
要は断った。
絵は要らなかった。
コーチ室に要は行った。
郷田は、映像を見て――いなかった。
机に向かって、一枚の紙を見ている。来季のロスターの、空欄の多い紙だった。
「ベイカーを、放出します」
要は言った。
郷田の手が止まった。
長い沈黙があった。要は待った。この人が怒るのか、喜ぶのか、要には読めなかった。
郷田は顔を上げなかった。
「……そうか」
それだけだった。
それから、ぶっきらぼうに言った。
「あんた、俺に、聞かなかったな」
「え」
「切るのを、だ。俺に、一言も、聞かなかった」
「聞いたら」
要は答えた。
「あなたが、背負うので」
郷田は少し黙った。
「前はな」
紙の空欄を指で叩いた。
「名簿だけ、渡された。この面子で勝て、ってな。獲るのも、切るのも、東京だ。俺は、渡された面子で、戦うだけだった」
「……」
「文句を言う相手も、いなかった。決めた奴は、もう東京にいたからな」
郷田はそこで初めて要を見た。
「あんたは、切ると、俺に言いに来た」
「はい」
「……八年で、初めてだ」
郷田はまた紙に目を落とした。それ以上は言わなかった。
だが、その空欄を見る目が、さっきと少し違っていた。
要が出ていくとき、郷田はペンを手に取っていた。
だが、書きはしなかった。
何を書けばいいのか、八年ぶりで忘れているのかもしれなかった。
ベイカーが荷物をまとめた日。
体育館の駐車場にタクシーが来た。
選手が何人か、見送りに出た。番場が握手をした。黒木が肩を叩いた。日本語の分からないベイカーは、笑って、それに応えている。
その輪の少し外に苅田悟がいた。
ベイカーが苅田のところへ歩いていった。
そして、何か言った。英語だった。
苅田がひどい発音の英語で返した。
ベイカーが笑った。それから、苅田の胸をこぶしで軽く突いた。
タクシーが出ていったあと、要は苅田に聞いた。
「何を、言われたんですか」
苅田は少し照れたような顔をした。
「『お前は、いい選手だ』って」
肩をすくめる。
「あいつ、最後まで、俺の出場時間、知らなかったんですよ」
そして、笑った。
「……知らないままで、よかったです」
ベイカーは、タクシーに乗る前に一度だけ、体育館を振り返った。
五千席の七割が空く体育館だ。
一年、この男はここで、二十点を取り続けた。誰も戻らないゴール下で、一人で点を取っていた。
それがこの男の仕事だった。押しつけられた、仕事だ。
点を取れと言われ、点を取ることだけで雇われた。守備は誰かが埋めた。そういうやり方を、いつか誰かがこの男に教えたのだ。
――この男もまた、渡された手段が、一つきりだった。
要はそう思った。だが、口には出さなかった。
ベイカーは何も言わずにタクシーに乗った。
事務室に戻ると浜口がいた。
「客は、減りますよ」
浜口は言った。
「タオルが売れる選手が、いなくなった。子どもは、名前を覚えてる選手を見に来ます」
「分かってます」
「……それでも、切るんですね」
「はい」
浜口は少し黙った。
「経理としては、反対です。いちばん分かりやすい、集客の駒でした」
それから、付け足した。
「でも、一年、見てきたので。……たぶん、これでいいんでしょうね」
要は空になったベイカーのロッカーを見た。
名札が外されている。
点を二十取る男が、いなくなった。
だが、東は、もう二人ぶん走らなくていい。そして、郷田が、次の駒を選べる。
がらんとしたロッカーに、春の風が入ってきた。名札の跡だけが、白く残っていた。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




