第45話 更地の春
四月が終わって、シーズンが終わった。
十勝五十敗。二十五クラブ中、二十四位。
そして五月、練習場の床が、剥がされ始めた。
要実は入口に立って、それを見ていた。
職人が二人、反った古い床板を、端から一枚ずつ起こしている。バールを差し込むと、みし、と乾いた音がして、釘が抜ける。板の裏は湿って黒ずんでいた。
冬のあの日、この床は反っていた。志水が滑って、番場が「危ねえ」と言った。
いま、その板が、一枚ずつ剥がされていく。
番場が練習の帰りに寄っていった。
剥がされた床を見て、足を止める。
「……張り替えるのか」
「はい。半面だけですが」
番場は新しく張られたほうの床を、革靴のまま一歩だけ踏んだ。
とん、と、乾いた音がした。反った床には出ない音だった。
「十六年、この床だった」
番場はそれだけ言って、行った。
冬の終わりに、要は照明を一つ直した。協賛の残りで一つだけ。
今年は床とウェイトだ。それも全部ではない。床は半面。錆びたバーベルの隣に、中古のラックが二台、増える。
志水がその新しいラックをさっそく触っていた。片方はまだ箱に入ったままだ。それでも、若い選手は新しい鉄が好きらしかった。
派手ではない。
だが去年まで、この練習場は、一ミリも新しくならなかった。
上りは順位表には出ない。たぶん、選手の膝の減り方に出る。
「オーナー」
浜口が書類を持って入ってきた。
「去年の平均の観客です」
千五百人が二千百人になっていた。
「屋台と、東と、掲示板で、六百人増えました。……去年より、四割増です」
悪くない数字だった。
だが浜口は、その紙の隅に、もう一つ数字を書いていた。
昇格の基準。平均、四千人。
二千百はその半分を少し超えたところだった。
「半分です」
浜口は言った。
「一年で四割増やして、やっと半分。……残りの半分を、あと何年で埋めるか、です」
要は答えなかった。
金で買った猶予はもう無い。ここから先は稼いで伸ばすしかない。
浜口はその紙に三つ目の数字を書いた。四千でも、二千百でもない、その真ん中の数字だった。
三千。
「これが、今季の損益分岐です」
浜口は言った。
「人件費と、運営費。それを賄えるのが、一試合、三千人。……これを超えないと、クラブは赤字です。昇格の四千より、こっちが、先の関門ですよ」
要はその数字を見た。二千百と三千のあいだ。九百人ぶんの隙間がそこにあった。
「その九百人ぶんの赤字は、今、どこから出てますか」
要が聞くと、浜口はすぐには答えなかった。答えなくても要には分かっていた。
宝くじの残りだった。七億は、買収と去年の赤字で、大半が消えた。残りを、要は今季の赤字に毎月注いでいる。クラブは潰れない。潰れる砂時計は、去年、いったん止めた。だが、要個人の砂時計は、まだ落ち続けていた。
「……あと、どれくらい、もちますか」
要が聞くと、浜口は少し黙ってから言った。
「このペースなら。……あと二季、埋めれば、底です」
浜口はペンを置いた。
「それと、要さん。これから人を増やすたびに、この三千は、上がります。……いい投資をするほど、超える線が、高くなる。埋める金も、増える」
要はうなずいた。驚きはなかった。分かっていた数字を、口に出されただけだ。
「どうやって、増やすんですか」
浜口が聞いた。
「あと二千人、です」
要はすぐには答えなかった。
屋台はもう回っている。東はもう獲った。口コミは勝手に動いている。去年の四割はその三つで増えた分だ。
だが、同じ手は、二度は効かない。
「……去年とは、別の手が要ります」
要はそれだけ言った。まだ、絵にはなっていなかった。
浜口は、もう一枚、紙を差し出した。
契約更改の一覧だった。
「更改は、だいたい固まりました。……一枚だけ、残ってます」
要は一番上を見た。
そこに、桁の違う名前があった。
ディオン・ベイカー。三十一歳。
「点は、取ります」
浜口は言った。報告の声だった。
「去年、平均二十点超え。チーム最多。子どもがタオルを買う、うちで唯一の選手です」
「オンオフは」
「……変わってません。あの人がコートにいる時間の失点は、いない時間の、倍近い」
要は紙を見ていた。
点を取る。客を呼ぶ。そして、負けに近づく。
一年、その矛盾を、東が二人ぶん走って埋めてきた。
「切りますか」
浜口が少し声を落とした。
要はすぐには答えなかった。
去年、要は割高の中堅を一人、外した。あのときは「代わりがいる」からだった。
ベイカーの代わりはいない。点を二十取れる外国籍は、この予算では、もう一枚も買えない。
代わりのいない駒を外す。
それは去年と逆だった。
帰りに、要はロッカーの前を通った。
用具係が真新しい名札を空のロッカーに貼っていた。
まだ誰も使っていない。夏に来る。
――一ノ瀬 樹。32。
その隣は東のロッカーだった。
夏に来る子が、いちばん近くで見ることになるのは、もう二人ぶんは走らなくていい東だ。
要はそれを、一秒だけ見て通り過ぎた。
練習場に戻ると、床の半面がもう新しくなっていた。
白い、まだ傷のない木の色だ。
職人が、最後の一枚を、とん、と踏んで嵌めた。
古い床と新しい床の境目が、一本、まっすぐに通っている。
片側だけが、白く光っていた。
明日から、選手はこの床で走る。
ベイカーの紙は、まだ、机の上にあった。
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