第41話 小さい金
木の札は一枚では何にもならなかった。
「炭火 くわがた」の札を、体育館の入り口に掛けた。それで入る金は、月に三千円だ。年で、三万六千円。九百万には、二百五十年かかる。
要はそれでよかった。
一枚目が要るのだ。
鍬形が動いた。
「一軒だけじゃ話にならん」と電話で言った、その翌日から、商店街を回りはじめた。
要が回るのではない。鍬形が回った。
「クラブに金を預けろ、って話じゃねえ」
鍬形は一軒ずつそう言った。
「体育館に、お前んとこの札を掛ける。月、三千円だ。前みたいに、東京に吸い上げられる金じゃねえ。お前の名前が、そこに出るだけだ。嫌なら、いつでも外せ」
それは屋台と同じだった。
自分の手を離れない金だ。預けるのではない。看板を出して、名前を掛けて、嫌になったら下ろす。
前のときとそこが違った。
あのときは、集められて、消えた。今度は、消えても、自分の札が消えるだけだ。誰にも預けていない。
一軒が掛けた。
二軒が掛けた。
去年畳んだ乾物屋の隣の魚屋が掛けた。魚屋が掛けたと聞いて、向かいの八百屋が掛けた。
金物屋もけっきょく掛けた。「孫が、東の守備が好きでな」と言って、いちばん端の目立たない場所に。
一軒だけ、最後まで渋った店があった。米屋だ。前のとき、いちばん多く出して、いちばん派手に裏切られた家だった。
鍬形は三度通った。三度目に、米屋の親父は、こう言ったという。
「札は、出す。……ただし、いちばん安い月五百円だ。それ以上は、二度と信じねえ」
鍬形は「上等だ」と言って、帰ってきた。
月五百円の札も壁の一枚だ。要はその一枚がいちばん重いと思った。
一軒だけ、最後まで掛けなかった店がある。酒屋だ。前のとき、米屋の次に多く出した家だった。
鍬形は、二度通って、やめた。
「あそこはいい」
帰ってきて、それだけ言った。
「祭りが嫌いなんじゃねえ。……祭りのあとが、嫌いなんだ」
要はその一軒を紙に書かなかった。書ける数字が無かった。
札は店だけではなくなった。
席の背もたれに、名札を入れられるようにした。一席、年に五千円。
子どもの名前を入れる親が、出てきた。
「李濬浩のとなりの席がいい」と言う子がいた。理由を聞いたら、「あの人、いつも一人だから」と言った。
四歳だという。名前を、陸といった。名札にはその二文字だけが入った。
浜口が数字を持ってきた。
今度はファイルだった。分厚かった。
「オーナー。……数え終わりました」
「いくつ、集まりましたか」
「三百二十七件です」
浜口は言った。
「いちばん大きい協賛で、月五千円。いちばん小さいので、月五百円。……全部で」
浜口は一番下の行を指した。
「九百万を、超えました」
要はその数字を見た。
一件では何にもならない金だ。月五百円。年に六千円。誰も、値段をつけていなかった。
(……値段が、ついてなかっただけだ)
李濬浩と同じだった。誰も見ていない。誰も数えていない。だから、安い。
「オーナー」
浜口が言った。
「この金、いいですよ。……これ、誰にも止められません」
「そうですね」
「大口一社なら、機嫌ひとつで消える。財前みたいなのが、判子一つで消せる。……でも、三百二十七件は、消せない。一軒が抜けても、三百二十六件、残る」
浜口はめずらしく少し笑っていた。
「分散です。経理として、こんなに気持ちのいい数字は、久しぶりです」
その週の試合。
体育館の壁に札が並んだ。すすけた木札、新しいプラスチックの札、子どもの手書きの札。ばらばらだった。揃っていなかった。
客が、自分の店の札を探して、指をさしていた。
誰も、要の名前は知らない。
札を掛けたのは鍬形が回ったからだ。鍬形が回ったのは、あの朝、木札をドアに差し込んだからだ。木札を差し込んだのは――
要はそれを誰にも言わなかった。
試合の前、番場が、壁の前に立っていた。十六年、このクラブにいる男だ。
ばらばらの札を、端から目で追っていた。
「……にぎやかに、なったな」
それだけ、言った。誰に言うでもなかった。
要は少し離れたところからその背中を見ていた。声はかけなかった。
事務室に戻って、要はあの一枚の紙を出した。一月から置きっぱなしだった、九百万の紙だ。
その行を消した。
消してみて、すっきりは、しなかった。
苅田悟はまだ赤いビブスを着て走っている。九百万が消えても、あの男の値段は、あの男の値段のままだ。
(……これは、そういう金じゃない)
穴が、一つ埋まっただけだ。
要は、紙を畳んだ。夏までの砂は、まだ、落ちつづけている。
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