第39話 地方の道楽
財前は時間どおりに来た。
黒い車がひび割れた駐車場に停まった。運転手が後ろのドアを開けた。
要は体育館の入り口で待っていた。浜口が半歩後ろに立っていた。
「ここが、まだ在るんですね」
財前は、建物を見上げて、それを最初に言った。
雨の染みた壁。錆びた庇。割れたまま貼り替えられていないガラス。
「正直、驚きました。とっくに、更地になっていると思っていた」
「まだ、試合をしています」
「ええ。伺っています。……二勝、でしたか」
「三勝です」
「失礼。三勝」
財前は微笑んだ。悪意のない顔だった。それがいちばん応えた。
応接室に通した。
ソファのスプリングは、片方が抜けている。財前は抜けていないほうに座った。座る前に、指で座面の埃を確かめる目をした。
浜口が茶を出した。湯気はすぐに消えた。
「単刀直入に申し上げます」
財前は言った。
「大洋は、このクラブに、もう一度だけ、金を出す用意があります」
要は黙って聞いた。
「運転資金の不足。……ご存じでしょう。町の金融機関に融資を断られた件も、こちらには入っています」
(早いな)
要は思った。十二社が断った翌週には、もう東京に届いている。
浜口は壁際に立ったままだった。
金のある側に頭を下げるのが仕事だ、と自分で言う男だ。その浜口が、茶を出したきり、動かない。
盆の縁を握った指の先が、白くなっていた。
「条件は、二つです」
財前は指を二本立てた。
「一つ。クラブ名に、『大洋』の冠を戻していただく。二つ。経営に、こちらから一名、役員を入れる」
「……名前と、椅子ですか」
「言い方を選べば、そうなります」
財前は湯気の立たない茶を一口飲んだ。
「悪い話では、ないはずです。あなたは金が要る。うちは体裁が要る。地方創生というやつは、いま、書類の見栄えがいいのでね」
要は、その二つの条件の意味を、すぐに理解した。
名前を戻せば、次に撤退するとき、大洋の判断でクラブを畳める。役員を入れれば、その判断は、内側から下せる。
これは支援ではない。
いつでも、もう一度殺せる権利を、金で買いに来ている。
「一つ、伺っていいですか」
要は言った。
「昔、この商店街を回って、協賛金を集めた社員が、いましたね」
財前の眉がわずかに動いた。
「……さあ。古い話は、私の管掌ではありません」
「あの商店街から、いくら集まったか、記録は残ってますか」
「憶えていません」
「三百万です」
要は言った。
「商店街の四十一軒が、出しました。そのうちの一軒は、去年、畳みました」
財前は答えなかった。
代わりに茶碗を置いた。かちり、と硬い音がした。
「要さん」
財前は初めて要の名を呼んだ。
「宝くじで、七億当てられたそうですね」
「ええ」
「立派なことです。それを、生まれた町に注ぐ。美談だ。……ですが」
財前は立ち上がった。
「これは、経営ではない。道楽です」
窓の外の、ひび割れた駐車場を見た。
「地方の、道楽だ。金が尽きれば、終わる。あなたは、いい人だ。いい人が、いちばん、町に迷惑をかける。――中途半端に灯りをつけて、消えるからです」
要は立ち上がらなかった。
「お返事は」
財前が言った。
「お断りします」
要は言った。それ以上、何も足さなかった。
財前は、少しのあいだ、要を見下ろしていた。値踏みをする目だった。そして、その目が要の中に何も見つけられずに離れた。
「……そうですか」
財前はドアへ向かった。
「一年、保ちますかね。あなたの、道楽」
黒い車が駐車場を出ていった。
要と浜口は応接室に残された。
浜口が口を開いた。
「オーナー。……あの三百万、帳簿には、金額まで残ってませんでしたよね」
「残ってません」
「はったりですか」
「協賛金です。大洋が集めて、引くときに、どこにも残らなかった。帳簿に載ってれば、とっくに問題になってます」
浜口は黙った。
「向こうが憶えてないなら、こっちの数字が、正しいことになります」
浜口は少し黙った。
それから、スプリングの抜けたほうのソファに、どすんと座った。ばね、と嫌な音が鳴った。
「……俺、金のある側に頭を下げるのが仕事だって、いつも言ってますよね」
「言ってます」
「今日は、下げなくて、よかったです」
要は窓の外を見た。
二月の空の下、ひび割れた駐車場で、子どもが二人ボールをついていた。リングは無い。ただ、ついているだけだった。
九百万は、まだ、埋まっていない。
いちばん高い金を、たった今、断ったところだった。
要は、机に戻って、紙をめくった。
断った一社の下に、まだ頭を下げていない名前が、何十と並んでいた。一軒で埋まる穴では、なかった。
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