第37話 金の話
浜口は要実の正面に座っていた。
ファイルは持っていない。手ぶらだった。
「金の話を、しましょうか」
要は頷いた。
浜口が上着の内側から出したのは、折り畳んだ紙が一枚だった。いつもの背表紙に日付を打ったファイルではない。
「持ってこないほうが、いいかと思って」
「……なぜ」
「ファイルにすると、来季まで棚に残るんで」
紙には数字が縦に並んでいた。
来季の開幕までに出ていく金。入ってくる金。その差。
要は一番下の行を見た。
赤い字ではなかった。浜口は赤いペンを使わない。それでも、そこにある数字が何を意味するかは、色が無くても分かった。
「……足りませんね」
「足りません」
浜口は言った。
「このままだと、夏を越えたあたりで、底です」
七億は、もう、七億ではない。
買収で消えた。今季の赤字で消えた。残っていた猶予が、月ごとに削れていく。
十二月のあの日、要は手帳に「九ヶ月」と書いた。あれから、砂は四ヶ月を切っている。
「削るとしたら、二つです」
浜口が言った。
「一つは、選手」
要は黙っていた。
「もう一つは、言いません。オーナーが、削らないやつなんで」
九百万。
その数字は、一月から、この部屋に置きっぱなしになっていた。
苅田悟を残す、と決めた日。浜口はドアのところで振り返って言った。「九百万は、どこから出すんですか」。
要は答えなかった。答えを、まだ持っていなかった。
二月になって、そこに李濬浩が乗った。アジア枠は外国籍より安い。だが、タダではない。
穴はあの日より大きくなっている。
九百万。
それは、今日も練習で赤いビブスを着て、いちばん走っている男の値段だ。試合には通算十一分しか出ていない。
数字の上では切れば消える九百万だった。
要はそれを消さないと決めた。決めたのは要だ。だから、作るのも要だ。
「浜口さん」
「はい」
「大口は、全部あたりましたか」
「あたりました」
浜口は即答した。この男は要が言い出す前に動く。
「十二社。全部、断られました」
「一社くらい、迷ったところは」
「一社、ありました。町工場の社長で、昔からのファンで。……判子を、出しかけました」
「なぜ、やめたんですか」
「奥から、経理が出てきたんです。『大洋さんが引いた会社に』って」
浜口は紙を裏返した。裏にも字が書いてある。
「十二社、全部これです。『大洋さんが手を引いた会社に、うちだけ出すわけには参りません』」
要の指が止まった。
大洋重工。
このクラブを企業チームとして持っていて、そして捨てた会社だ。町の造船を捨てたのと同じ手つきで。
「一社だけ、残ってます」
浜口が言った。
「どこですか」
「……大洋です」
要は浜口を見た。
「向こうから、来てます。『話を聞いてやってもいい』と。窓口は、財前さんです」
要の指がまた止まった。
その名は覚えていた。ベイカーを郷田に押しつけ、このクラブから手を引く判を押した、本社の役員だ。
浜口の声には何の熱も無かった。
「オーナー。俺は経理です。金のある側に頭を下げるのが、仕事です。……でも、これは」
「分かってます」
要は言った。
「あそこの金が、いちばん高い金です」
浜口が帰ったあと。
要は、畳まずに置いた一枚の紙の前で、しばらく座っていた。
九百万を、一筆で消せる相手はいる。大口が一社、判を押せば、この行は明日には消える。
だが、大口は十二社が断った。十三社目は毒だった。
(……大口じゃ、ないな)
要は立ち上がった。上着を取った。
事務室を出るのは久しぶりだった。この一月、要はほとんどこの椅子に座っていた。数えて、悩んで、また数えていた。
外は二月の夕方だった。息が白い。
商店街まで歩いて十五分ある。
要はその道を、バスに乗らずに歩いた。歩くと、町の畳まれ方が、よく見える。
本屋が消えていた。去年までは在った。時計屋もシャッターが下りている。ガラスの向こうに、値札のついたままの時計が、みんな違う時間を指して並んでいた。
潮見銀座商店街のアーケードの、ちょうど真ん中に、もう一軒、シャッターの下りた店がある。
そのシャッターには、色の褪せた字が残っている。
――かなめ商店。
要はその前で足を止めた。一秒だけだった。
それから、また歩き出した。
アーケードの奥から、煙と、匂いが流れてくる。
鍬形の焼き鳥屋の、赤い暖簾が見えた。
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