第34話 安いからです
三日後、一ノ瀬樹は潮見ブルーホエールズの練習場に来た。
学生服のままだった。
要実は事務室に通した。
一ノ瀬は椅子に座って、部屋を見回した。狭い部屋だ。壁の塗装が剥がれている。暖房がかたかた鳴っている。
「……ここ、事務所なんですか」
「ええ」
一ノ瀬はそれ以上、何も言わなかった。
その膝の上に紙の束があった。
コピーだった。何枚もある。角が揃っていない。
「それは」
一ノ瀬は少しだけ、耳を赤くした。
「……先生が、書いたやつです」
「先生」
「顧問の。番場さんが来た日に、ずっとメモ取ってて」
一ノ瀬は紙を膝の上で少し揃えた。
「コピー、もらいました」
要はそれを見た。
そして、何も言わなかった。
――この子は、まだ来ると言っていない。
「番場さんは」
一ノ瀬が聞いた。
「今日は、遠征の準備です」
「そうですか」
一ノ瀬は少しがっかりした顔をした。それを隠そうとして、失敗していた。
「一つ、聞いていいですか」
一ノ瀬は言った。
「はい」
「俺、この町、出るつもりだったんです」
要は顔を上げた。
「親父、造船所にいたんです。俺が小学校のとき、無くなりました」
一ノ瀬の声は平坦だった。恨んでいるわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただの事実として言っている。
「うちの学年、二クラスしかないんですよ。俺の友達、みんな出てきます。当たり前です。ここ、何も無いんで」
一ノ瀬は膝の紙を見た。
「……なのに」
そして、顔を上げた。
「番場さん、なんで、残ったんですか」
要は答えなかった。
答えを持っていないからではない。
要は、番場が残った理由を、たぶん知っている。だが、それは要の話ではなかった。
(……それに)
要は自分の手元を見た。
この子の親父が造船所を出た年に、要も、この町を出ている。
(……俺は、残らなかった側だ)
「本人に、聞いてください」
要はそう言った。
一ノ瀬は不服そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
要は手帳を開いた。
そして、話した。
「うちは、二勝二十九敗です。リーグの最下位です」
「……はい」
「提示できるのは、育成契約です」
要は言った。
「月給は、あなたの就職先より安い。うちに、それ以上は無い」
「……はい」
「育成契約には、条件が付きます。うちが決めれば、あなたを他所のクラブに貸し出せる。あなたの合意は、要りません」
一ノ瀬の眉が動いた。
「一年目、試合には出しません。二年目も、出しません」
「……出せない、じゃないんですか」
「出しません」
要は言った。
「特別指定という制度があります。学生のまま、今シーズンの残りに出られる。うちは、まだ二枠とも空いてます」
「……」
「使いません」
一ノ瀬は要を見ていた。
「三年後にあなたがモノになる確率を、俺は五分五分だと思ってます。……スカウトの評価と、同じです」
「……」
「これが、全部です」
一ノ瀬はしばらく黙っていた。
それから、言った。
「……なんで、そんな話するんですか」
「本当だからです」
一ノ瀬の顔が赤くなった。
怒っていた。
「三十二チームに、いらないって言われたんです」
一ノ瀬は言った。
声が震えていた。
「あんただけが要るって言うのは、なんでですか」
「……俺が、可哀想だからですか」
要は一ノ瀬を見た。
十八歳が椅子の上で拳を握っていた。
(……この子は、それをいちばん恐れている)
先週、この子は「部員が七人だから」を蹴った。
言い訳を蹴った。同情を蹴った。三十二チームに切られてなお、この子はまだ自分の足で立とうとしている。
そこに要が「あなたには価値がある」と言えば。
この子は要を軽蔑する。
要は正直に答えた。
「安いからです」
一ノ瀬の顔が止まった。
「三十二チームが、いらないと言った」
要は言った。
「だからあなたは、タダみたいな値段です。……うちには、それしか買えない」
要は手帳を閉じた。
「俺は、あなたが好きだから来たんじゃありません。安いからです」
事務室が静かになった。
「……それ」
一ノ瀬が言った。
「ひどくないですか」
「ひどいです」
要は言った。
そして、一つだけ足した。
「三年後、高くなってください」
「え」
「そうなったら、俺はあなたに値段を払えなくなる」
要は言った。
「そのときは、出ていってもらってかまいません」
一ノ瀬は要の顔を見ていた。
長いこと見ていた。
それから、笑った。
十八歳の顔だった。
「……あんた、変ですね」
「そうですか」
「変ですよ」
一ノ瀬は立ち上がった。
そして、ドアのところで振り返った。
「あの」
「はい」
「番場さんに、教わりたいんですけど」
一ノ瀬は言った。
「……それ、いくらですか」
要は少し考えた。
「タダです」
そして言った。
「うちには、それしか無いので」
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