第33話 来ねえ奴に教える暇はねえ
その日、一ノ瀬樹は体育館の入口を見て、動けなくなった。
番場剛が立っていた。
この町でバスケをやった人間なら、全員が知っている。
一ノ瀬が小学校のとき、父親に連れられて初めて見た試合で、コートに立っていた男だ。あのとき、この人は二十いくつだった。
そのあと十年、この人はずっと同じクラブにいる。そして、ずっと負けている。
「……ばん」
声が出なかった。
番場は一ノ瀬を見た。
そして。
通り過ぎた。
一ノ瀬は振り返った。
番場は体育館の奥へ歩いていった。そこには二年生の子が二人と、一年生の子が二人いた。
番場はその四人の前で立ち止まった。
四人が固まった。
この町の子どもは、全員この人を見て育っている。誰も動けなかった。
「そこ、足の向きが逆だ」
誰も、返事ができなかった。
最初に動いたのは、いちばん背の低い一年生だった。
そして二時間、番場は残りの六人に教えた。
一ノ瀬には一言も話しかけなかった。
一ノ瀬はコートの端に立っていた。
最初の十分は待っていた。次は自分だと思っていた。
三十分が過ぎて、そうではないと分かった。
一時間が過ぎて、一ノ瀬は座らなかった。座ったら、負けだと思った。何に負けるのかは分からなかった。
見ていた。
番場は、一度も「頑張れ」と言わなかった。
「もっと近くで打て」
「肘」
「そこじゃねえ。半歩前だ」
全部、具体だった。二時間、一つも精神論が無かった。
一ノ瀬は、自分が三年間、この六人に何を言ってきたかを思い出した。
――頑張れ。
――なんで入らないんだよ。
それだけだった。
その二つは何も教えていない。
物理の先生がコートの外でノートを開いていた。
番場が何か言うたびに書いている。ボールを触ったことのない手で、聞き取れないところは番場に聞き返して、必死に書いている。
一ノ瀬は、その先生のことも、三年間、見ていなかった。
一年生に西村という子がいる。背が低くて、下手だ。入ってきてから、一ノ瀬は西村がシュートを決めるのを、たぶん十回も見ていない。
その西村が。
番場に足の向きを直された。それだけだ。
「つま先。リングに向けろ」
それだけでシュートが入った。
二本目も入った。
三本目は外れた。西村がびくっとして、番場の顔を見た。
番場は何も言わなかった。ただ、もう一本、ボールを渡した。
四本目が入った。
西村が変な声を出した。
一ノ瀬はその声を聞いていた。
(……入るのか)
そんなことは考えたことがなかった。
三年間、一ノ瀬はこう思っていた。
こいつらは下手だ。だから俺が四十点取るしかない。
違った。
誰も、教えなかっただけだ。
一ノ瀬は知っていた。西村がスマホで何度もシュートの動画を見ていたことを。休み時間に、こっそり真似していたことも。
それでも、入らなかった。
動画は、西村の足がどこを向いているかまでは、教えてくれない。
一ノ瀬は自分の手を見た。
(……俺も、か)
物理の先生が顧問の、部員七人の高校で。
三年間、一ノ瀬は誰にも、何も教わっていない。
跳べたから跳んだ。当たっても飛ばなかったから、当たった。それで四十点取れた。
それだけだった。
二時間が経った。
番場はタオルで手を拭いて、帰ろうとした。
そのとき、一ノ瀬は気づいた。
この人、二時間、一度も座らなかった。
そして――右足に、体重を乗せていない。
番場が壁に手をついた。一瞬だ。すぐに離した。
体育館の誰もそれを見ていなかった。
一ノ瀬だけが見た。
一ノ瀬は走った。
「あの」
番場が振り返った。
一ノ瀬は言葉が出てこなかった。
やっとこれだけ言った。
「なんで、俺に教えないんですか」
番場は一ノ瀬を見た。
そして、言った。
「お前、来ねえんだろ」
「……」
「来ねえ奴に教える暇はねえ」
番場は体育館の奥を顎で指した。
六人がまだボールを触っている。西村が、さっき教わった足の向きを、一人で繰り返していた。
「あいつらは、来週も、ここにいる」
そして番場は出ていった。
一ノ瀬はその場に立っていた。
三年間、一ノ瀬は四十分走った。四十点取った。誰よりも走って、誰よりも取って、そして負けた。
そのあいだ、この六人が何をしていたか。
一ノ瀬は一度も見ていなかった。
(……俺が、いちばん見てなかった)
その夜、一ノ瀬は眠らなかった。
翌朝、体育館のシャッターが上がったとき、一ノ瀬はもう外にいた。六人が来るより、三十分早い時間だった。
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