第32話 七人
事務室に戻って、要は電卓を置いた。
叩くものが無かった。
数字は一ノ瀬の側にある。
全部のクラブがいらないと言った。それは事実だ。一ノ瀬はそれを「答え」と呼んだ。
要にはそれを覆す数字が無い。
七人という数字は、言い訳にしかならない。本人がそう言った。
(……俺には、この子に言うことが無い)
要は天井を見た。
一月に、要は「見えない」と認めた。だから郷田のところへ機械を置きに行った。
今度は見えないのではない。
見えている。だが、届かない。
要は上着を取った。
練習場はいつもの練習場だった。
蛍光灯が一本、切れかけて点滅している。床が反っている。ウェイトルームには、錆びたバーベルが二本しかない。
番場剛は居残りで、志水につきあっていた。
要が来ると、番場はボールを止めた。
「……なんか用か」
要は一枚の紙を出した。
ドラフトの、指名漏れ一覧だった。
「一ノ瀬樹という子がいます」
番場の顔から、表情が消えた。
「……潮見工の一ノ瀬か」
「知ってますか」
「知ってるよ」
番場は言った。
「地元だ。この町でバスケやってて、あいつを知らねえ奴はいねえ」
「試合は」
「見たよ。あの準々決勝な」
「……行かれたんですか」
「毎年、行ってる。県大会は」
要は少し驚いた。
「なぜ」
「暇だからだ」
番場はそれ以上、言わなかった。
十六年、この人は毎年、地元の高校の試合を見に行っている。誰にも頼まれていないのに。
要はその言い方を、前にも聞いたことがあった。
――頼まれちゃいねえよ。勝手にやってるだけだ。
要は待った。
番場は少し黙ってから、言った。
「あいつは、駄目だ」
「四十点取って、味方を怒鳴った」
番場は言った。
「見たよ、あの試合。……俺は、ああいうのが、いちばん嫌いだ」
番場の声は静かだった。だから、余計に重かった。
「点は誰でも取れる。いつか取れなくなる。……そのとき何が残るかだ」
番場は自分の膝を見た。
「あいつには、何も残らねえ」
要は聞いた。
「番場さん。あなたは、怒鳴ったことがありますか」
番場は要を見た。
「無えよ」
「一度も」
「十六年、一度もだ」
要は待った。
番場は少し黙ってから言った。
「……なんでか、分かるか」
「いえ」
「怒鳴ったら、次の年、そいつがいねえからだ」
番場はタオルを首から外した。
「うちは、負けるクラブだ。毎年、誰かが切られる。誰かが出ていく。……去年一緒に走った奴が、今年はもういねえ」
番場の声は静かだった。
「そういうとこで、一回怒鳴ってみろ。……謝る相手が、もういねえんだよ」
体育館の隅で、ボールを撞く音が止まっていた。
志水がいた。
ボールを持ったまま、こちらを見ている。何が起きているのか分からない顔をしていた。
だが、その顔が、少しずつ変わっていった。
十二月に、この子は一点差で外して、ロッカーの壁を叩いた。番場はその肩を、二度叩いただけだった。何も言わなかった。
(……この人は、いま、教えたんだな)
要は思った。
番場は要に喋っている。だがこの部屋で、その言葉をいちばん深く受け取ったのは、たぶん要ではなかった。
要は反論しなかった。
番場の言うことは正しかった。一ノ瀬は怒鳴った。それは映像にはっきり映っている。
要は一つだけ言った。
「七人です」
「あ?」
「潮見工のバスケ部は、部員が七人です」
番場が止まった。
「一ノ瀬さんは三年間、全部の試合に四十分出てます。……交代が、いないので」
要は言った。
「怒鳴った相手は、三年間、彼と一緒に四十分走った六人のうちの一人です」
番場は動かなかった。
長い沈黙があった。
体育館の隅で、志水がボールを持ったまま立っている。何が起きているのか分からない顔をしていた。
やがて番場は低い声で言った。
「……俺は、それを見てなかった」
「俺は、あいつが怒鳴ったのを見た」
番場は言った。
「怒鳴られた奴が、どんな三年間だったかは、見てねえ」
要は何も言わなかった。
番場はボールを床に置いた。
そして、要を見た。
「あんた」
「はい」
「あいつを獲れって、俺に言いに来たのか」
「いえ」
要は言った。
「一ノ瀬樹という子がいます、と言いに来ました」
番場はしばらく、要の顔を見ていた。
それから、ふ、と息を吐いた。
「……あんた、そういうやり方しかできねえのか」
「はい」
番場はタオルを取った。
そして、それだけ言った。
「見に行く」
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