第28話 一本も、サボってねえ
郷田学は見るつもりはなかった。
三日、あの機械は机の隅にあった。郷田はそれを一度も開かなかった。
開けば、負けだと思っていた。
何に負けるのかは、郷田自身にもよく分からなかった。
いや。
分かっていた。
見て、良かったら、俺は「獲れ」と言うことになる。言った瞬間、そいつの人生が俺のものになる。
見て、駄目だったら。
郷田はそこで、いつも思考が止まった。
駄目だと言えば、あの若造は獲らない。そして東は来年も二人ぶん走る。
――どっちに転んでも、俺が背負うんじゃねえか。
四日、機械が開かなかったのは、それだった。
八年、郷田は名簿に口を出さなかった。
いや、と郷田は思う。
出せなかったのではない。出さなかったのだ。
東京が決める。浜口が持ってくる。郷田はそれを受け取って、この面子で勝て、と言われる。
理不尽だった。だが、楽でもあった。
誰かが切られる。誰かが獲られる。そのどれも郷田が決めたことではない。だから郷田は、どの選手の顔も、まっすぐ見られた。
俺のせいじゃない。
八年、その一言が、郷田を守ってきた。
ベイカーのときもそうだった。
開幕直前に来た。郷田はその日に初めて顔を見た。走らない男だった。守備で置いていかれる男だった。
だが郷田はベイカーを恨まなかった。
恨む相手がいなかったからだ。決めた人間は東京にいる。
――郷田さん。あなたなら、どうしますか。
あの若造はそう聞いた。
その日から、郷田は眠りが浅い。
四日目の夜。
練習場は誰もいなくなっていた。郷田はコーチ室に一人でいた。
机の隅の機械をしばらく見ていた。
それから、開いた。
粗い映像だった。
画面の中で十人が走っている。郷田は五分で、そのリーグのレベルを把握した。
(……ひでえな)
守備が無い。ローテーションが無い。誰も声を出していない。
点が入るのは当たり前だった。こんなリーグで二十点取ったところで、何の証明にもならない。
郷田は舌打ちをした。
(帰るか)
そのとき、目が引っかかった。
相手のシュートが決まった。
十人のうち、九人が歩いていた。当たり前だ。二十点差がついている。第四クォーターだ。誰も走らない。
一人だけ、走っていた。
郷田は巻き戻した。
もう一度見た。
李濬浩。背番号は剥がれかけていて読めない。
その男は、味方がシュートを外した瞬間に、自陣へ向かって全力で走っていた。
誰も追いかけていない。誰も戻っていない。
一人だけだ。
郷田は椅子に座り直した。
そして、引き出しから鉛筆を出した。
一試合ぶん、数えた。
相手にボールが渡った回数。李濬浩が自陣へ戻った回数。
同じだった。
郷田はもう一試合、開いた。同じだった。
三試合目で、郷田は数え方を変えた。
戻った回数を数えていても、埒が明かない。二百に届く。手が痛くなる。
だから、逆にした。
――戻らなかった回数を、数える。
そのほうが早いはずだった。
郷田は湯を沸かした。インスタントを一杯。
四試合目で二杯目を淹れた。
六試合目で、三杯目を淹れようとして、瓶が空になった。
気がつくと外が白んでいた。
八試合、全部見ていた。
手元の紙には太い鉛筆で正の字が並んでいる。途中で線が薄くなり、また濃くなっていた。芯が折れたのだ。
その正の字は、全部、左側の欄にあった。
「戻った」の欄だ。
右側の欄――「戻らなかった」の欄には。
一本も無かった。
数え方を変えた意味が無かった。
郷田はその紙を見ていた。
(……なんで、こいつは走ってるんだ)
このリーグには、それを数える人間がいない。スタッツにも載らない。客もわかない。給料も上がらない。
二十点差がついた第四クォーターに全力で自陣へ戻ったところで、この世の誰一人、それを見ていない。
三年、この男はそれをやっている。
郷田は自分の手のひらを、机の上で開いた。
節くれだった、大きな手だった。
――東は捨てねえ。四十分、一回もだ。
二ヶ月前に自分が言った言葉が、頭の中で鳴った。
そして、その東が、いま何をさせられているか。
前半十八点。客がわく。そして守備で、ベイカーが置いていかれる。
その後ろを、東が二人ぶん走って埋めている。
毎試合。四十分。
郷田の右手は何度も上がりかけた。そのたびに止まった。
高い駒だ。客が呼べる。そして――俺が選んだ駒じゃない。
(……あれは、あと半年ももたねえ)
郷田は初めてそれを言葉にした。
言葉にしてしまうと、逃げられなくなる。
それが分かっていて、郷田は口に出した。
郷田は紙を折って、上着の内ポケットに入れた。
機械を閉じた。
外は、もう明るくなっていた。
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