第25話 数えていた男
「苅田です」
そう言って入ってきた男は、笑っていた。
練習着のままだ。髪がまだ濡れている。
「座っていいですか」
「どうぞ」
苅田は座った。そして、部屋を見回した。
「事務室、初めて入りました」
「……そうですか」
「六年いて、初めてです」
苅田は笑った。悪意のない笑い方だった。
「オーナーさん」
「はい」
「俺の練習、見に来てましたよね。二階から」
要は答えなかった。
「あれ、めちゃくちゃ怖いんですよ。こっちからしたら」
苅田は肩をすくめた。
「オーナーが二階に立ってる。誰を見てるかは、言われなくても分かるんです。……だってあの日、俺だけ赤いビブスだったんで」
そして、軽い調子のまま言った。
「だから、先に言いに来ました。……いいですよ。切ってもらって」
要は苅田を見た。
苅田は笑っている。
「待つのが、しんどいんですよ。毎年、更改の時期になると眠れなくて」
苅田はそこで、少しだけ言葉を切った。
「……今年は、よけいに」
そして、また笑った。
「だから、先に言っちゃったほうが楽だなと思って」
「三年で、一時間半なんです」
苅田は言った。
要の手が止まった。
「え」
「出場時間です。三シーズンで、一時間半。今季は二十九試合で十一分」
苅田はまた笑った。
「九百万ももらってて、一時間半ですよ。……ひどい話でしょ」
「……数えてるんですか」
要は聞いた。
苅田の笑顔が止まった。
「数えますよ」
短い間があった。
「……そりゃ、数えます」
要は何も言えなかった。
要は一週間かけて、この男の数字を探した。何も無かった。存在しない、と結論した。
だが、あった。
この男は自分で数えていた。誰も数えなかったものを、六年間、一人で。
(……郷田さんと、同じだ)
折れた鉛筆で、ひと月ぶんの失点を数えた男がいた。
数字が嫌いなのではない。誰も自分の数字を数えてくれないから、自分で数えるしかなかっただけだ。
「俺、なんで残れてるんすかね」
苅田はそう言った。
冗談みたいな言い方だった。だが、目は笑っていなかった。
「番場さんが庇ってくれてるのか、郷田さんが情けかけてくれてるのか。……分かんないんですよ、ずっと」
苅田は自分の膝を指で叩いた。
「六年、分かんないままです」
要は答えなかった。
答えられなかった。
要にも分からないからだ。
代わりに要は一つだけ聞いた。
「苅田さん」
「はい」
「ベイカーさんと喋ってるの、あなただけですよね」
苅田はきょとんとした顔をした。
「え? ……ああ」
苅田は少し考えて、言った。
「あいつ、俺のこと、下手だと思ってないんですよ」
要の手が止まった。
「え」
「あいつ、日本語分かんないでしょ。俺の出場時間も、たぶん知らない。……だから楽なんです」
苅田は頭をかいた。
「情けない話ですけど。この体育館で、俺を選手だと思ってるの、あいつだけなんで」
「……それだけですか」
「それだけですよ」
苅田は不思議そうに要を見た。
「他に、何かあります?」
「……いえ」
要は言った。
「ありません」
苅田は立ち上がった。それから、少し困ったような顔で言った。
「あの。切るなら、早めに言ってもらえると助かります。嫁がいるんで」
「分かりました」
苅田は頭を下げて、ドアに手をかけた。
そこで止まった。
背中を向けたままだった。
「……あの」
「はい」
「さっきの、嘘です」
「え」
「切ってもらっていい、ってやつ」
苅田は振り返らなかった。ドアノブを握ったまま、そこに立っていた。
「……嘘です。すいません」
要は何も言わなかった。
「俺、まだやりたいんですよ」
苅田の声は笑っていなかった。
「一時間半でも。……六年、一時間半でも」
そして、逃げるように出ていった。
ドアが閉まる。
要は、その足音が廊下の先で消えるまで、動かなかった。
要は手帳を開いた。
苅田悟の名前。その横の空白。
一週間、そこには何も書けなかった。オンオフも、失点も、勝率も、何一つ入れられなかった。
要はペンを持った。
そして、二文字だけ書いた。
――残す。
それだけだった。数字は一つも書かなかった。
この手帳の中で、数字のついていない行は、それが初めてだった。
要は窓の外を見た。
一月の潮見はまだ長い。三月まで、勝てる材料は一つも増えない。負けはまだ二十も三十も続く。
その三十で、このチームは壊れるかもしれない。
――壊れなかったとしたら。
それは苅田悟のおかげだ。だが、誰もそうは思わない。記録にも残らない。どこにも書かれない。
そして、九百万をどこから出すかは、まだ何も決まっていなかった。
翌日の練習も苅田は赤いビブスだった。
抜かれて、走らされて、そのたびに何か言っていた。四十七回か、もっとか。要はもう数えなかった。
自分が昨日、切られずに済んだことを、この男は知らない。
たぶん来年も、その次の年も、知らないままだ。
(……それでいい)
要はそう思った。
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